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2019年11月03日

南直哉さんの話と若住職さんの話-5

今年のお盆にも、若住職さんが軽自動車を自ら運転して我が家に来て、読経してくださいました。
それを今さら記事にするのもどうかな、という気がしますが、備忘録として書いてみます。

まぁ、私のブログそのものが備忘録のようなものなのですが、記事の中でこの言葉が出て来たらご注意ください。
自分で言うのも何ですが、いつもにも増して面白くなく、無駄にダラダラと長い文章になってしまうことが多いです。
賢明な読者の方には、気合を入れて飛ばし読みをされることをお薦めします。。。

一応、次のことについて書こうと思いますが、入り乱れた内容になります。

・若住職さんの話
・南直哉さんと若住職さんのシンポジウムの書籍の出版について
・その他思い付き



今年の春、若住職さんから檀家に向けてお知らせの手紙が届いた。
『何かな?』と思って開けてみると、
『この度、現住職の後任として正式に住職となることとなりました。ついては、次のとおり関連の行事を執り行うので、ご案内申し上げます・・・』というような内容だった。


お父さんである前住職から住職を引き継いだということで、そのことには別に驚かなかったが、『近くのお寺から当寺まで稚児行列を行います』には少し驚いた。
お寺の事情はよく分かりませんが、私は稚児行列は聞いたことはあるが観たことはなかったので、『そんなに大袈裟な行事を行うのが普通なのかなぁ』と思い、また、ご住職のお寺は浄土真宗で、その近くのお寺は臨済宗なんですが、『宗派が違っても、そこは関係ないのかなぁ』と思った。


ということなので、今後は(次の行から)今までの「若住職さん」から「ご住職」と言うことにします。

それで、上述のように今年のお盆にもご住職が来てくださり、短時間の雑談ができた。
もともとのお寺が戦災で焼失し、現在の地に移転した話などを伺った。

そして、昨年ご住職からお聞きしていた「南直哉さんとのシンポジウムの書籍の出版について」改めて訊いてみた。
すると、結局、一般の市販本ではなく非売品として出版したとのことであった。
私は厚かましく、『その本を是非譲ってください』と言った。

数日後、ご丁寧にも、他の本と一緒にその本が郵送で届いた。
しかしまだ、お礼も言っていない不義理の私です。

・・・・・
(ここで編集中の記事の一部が消えてしまった。。。ガクッ。書き直してみます。)
・・・・・

その本のタイトルは、
『曹洞宗総合研究センター第19回学術大会 「人を裁く」事の意味を問う ~一般社会と宗教の「善悪」観について~ 講演録』 H.29.11.2  10時~12時 と、
なんか長くて難しそうだ。
ボリュームは100頁弱。

それで、適当にパッと開いたところ、自死について書かれてあった。
私には、このことについては今は考えたくない、という気持ちがあったので、せっかく本を送ってくださったのに何日も読まずに放置していた。

後日、本の奥付の辺りを何気なく見ていて驚いた。
ご住職は、東大の印度哲学科を卒業され、その後、同大大学院の印度学仏教学専攻の博士課程まで修了されていた。
複数の大学の非常勤講師もされており、いくつかの書籍も出版しているらしい。
私の周りで、そのような経歴を持ったお坊さんは、他に聞いたことがなかった。

少し脱線しますが、昔、人事異動で職場に入社2~3年の人が転勤して来ることが分かった時、その人のことは知っていたので、つい、『ああ、東大法学部出身のお兄ちゃんだね』と言ったところ、周囲から『なぜ東大だからといって称賛するのか?』と言われたことがある。

私は別に東大出身者を称賛する気は毛頭なく、客観的な事実を言ったつもりだった。
実際、余りdisりたくはないが、東大の名誉教授とか、東大出身の教授・弁護士・官僚・国会議員などで、おかしなことを言う人が最近目立っているな、と思っている。

ただ、東大に合格するには知識が豊富なだけではなく、出題者が求めている正解を短時間に導き出す訓練-所謂受験勉強を、一生懸命しなければ難しいだろうと考えているので、私と違って一番遊びたい高校生の時期にそういう努力をした点については、それなりに敬意を抱いている。


案の定、文章が少し長くなってしまっていますが、話を戻します。



以前の記事で書いたことがありますが、ご住職と雑談していると、キリスト教等の他の宗教や思想にもお詳しいことが分かった。
プラトンやカントの話などもさらっと出て来る。

それまでの雑談で、ご住職が聡明で博識なことは分かっていましたが、『このお坊さんは一体何者なんだ?』といつも思っていた。

数年前のお盆の時、『この度、南直哉さんとシンポジウムで対談することになりましたが、南直哉さんのことは余り知らないので、これから南さんの本を読んで勉強します』と、ご住職が言っておられた。
それを私は真に受けて、『南直哉さんは実存と言う言葉をよく口にされ、形而上学的な話が多いので気を付けてくださいね』などと要らぬことを言ってしまった。

哲学者に偉そうにそんなことを言ってしまい、今となってはとても恥ずかしい思いがしている。
本来の意味とは違うことは承知した上で言うと、囲碁の世界でいう「耳赤の一手」を打たれたことを連想した。



この本は講演の記録なので言葉自体はそんなに難しくないのですが、内容とか論理展開はかなり難解だと感じた。
こういう場合、私は取り敢えず余り考えずにサーっと読み流すことにしている。
そして、暫くの時間を置いて再読する予定です。
その方が、余り読解力のない私には有効だと思うからです。


後で読み直してみても、どこに書いてあったか探せないのですが、印象に残ったところを書いてみます。

・多分、南直哉さんが仰っていたと思いますが、『善悪は相対的なものである』という言葉があった。

私は、『善悪は誰が決めるのか。
神や仏が決めるのか、社会が決めるのか、個人が決めるのか、時代が変わっても普遍的なものなのか』
といったモヤモヤとした想いを若い頃から抱いています。

C.G.ユングは、『私たちは悪を排除し、良い部分だけを取り出したいという思いがあるが、物体に光を当てた時と同じように、光っている部分だけを切り取って取り出しても、必ず影の部分が生じてしまい、それはできないのですよ。
だから、対立する光と影が共存する状態を考えなくてはいけません』というようなことを言っていたと思う。


気になるので、後でまたこの講演録を読んでみようと思う。


・ご住職が講師をしている大学で学生にアンケート調査を行った話があった。
『今まで、どのような人に惹かれましたか?』
選択肢:善人、まあまあ善人、普通、ちょい悪、悪人

一昨年まで、「まあまあの善人」に次いで「ちょい悪」と「普通」が拮抗していたが、昨年の調査では「ちょい悪」の人気が下から2番目になったそうだ。

その辺りの解析はまだ行っていないとのことであったが、私的にはそこには大した関心がなく、このアンケートが良いと思ったのは、その理由を書かせていることだ。

私も、「ちょい悪」に惹かれるのは何となく分かる気がするが、上手く言葉では理解できなかった。

その「ちょい悪」に惹かれる理由に興味を持った。
 ・主体性がある
 ・自由である
 ・他人を理解できる
 ・分け隔てをしない

『成程な』と言う気がする。


まぁ、そんな感じでまた再読しようと思っています。


P.S.
今までなかなかブログの更新ができませんでした。
一番の理由は私の横着ですが、Googleからエラー送信通知が頻繁に来たり、Chromeで検証してみると、エラーが20~30もあって、気持ちが少し折れていました。

どうもGoogleの検索に掛からないようになっているらしく、賑やかしのCM画像を削除しても上手くいっていないようです。

エラーも、私の知識がなくて、どうしたら良いのか分かりませんが、コメントエラーも表示されています。
英語でよく分からないのですが、コメントするとtime overになっているのではないかと危惧しています。

それで、コメントされる場合は、「いわし雲の思い付き」と同じメルアドですが、[juinppm@yahoo.co.jp]の方に頂ければ幸いです。













posted by いわし雲 at 18:35 Comment(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2018年08月28日

南直哉さんの話と若住職さんの話-4

皆様方、お久しぶりです。

備忘録的に簡単に書いてみます。

今年も暑いお盆の中、若住職さんが我が家に読経に来てくださいました。

次々と檀家を回られるので、雑談の時間はほとんどなかったのですが、前回の記事で書いたように、若住職さんが、

『今度、東京でシンポジウムがあり、初めて南直哉さんにお会いしてお話することになりました』

と言われたことを不意に思い出し、少し尋ねてみました。

『半年くらい前にシンポジウムがあって、司会の方を入れて対談しました』

とのことでした。

南直哉さんの印象については、

『背が高い方で、また曹洞宗の袈裟は袖?が長いので立位では威圧感を感じましたが、お話してみるととても親しみやすく、魅力的でした』

『ただ、形とか作法については、とても厳しいお考えをお持ちのようでした』

と言われました。

時間もなくてそれ以上若住職さんにお聴きすることはできませんでしたが、その対談の内容が近く本として発行されるらしいです。

一般の図書として販売されるかどうかは分かりませんが、どのようなお話をされたのか、是非読んでみたいと思っています。

友人から貰った「禅と福音」はまだ読めずにいますが。
ラベル:お盆 南直哉さん
posted by いわし雲 at 16:39 Comment(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2018年03月06日

南直哉さんと宮崎哲弥さんの話

今日、たまたま『ザ・ボイス そこまで言うか』を聴いていたら、宮崎哲弥さんと南直哉が対談していました。

内容を整理できないまま、少し書いてみます。

・本当に辛いのは、「人間関係だ」南さんは言う。
特に、「金」「異性関係」「地位・名誉」。

・西洋の思想では、「今の私は大丈夫」「コントロールできる」という前提が基本になっており、いわゆる「How To本」が沢山溢れている。

・そして「大丈夫、何とかなるよ」と言っている本が多くある。

・しかし実際は、この世がままならないだけでなく、自分もままならない」

・だからむしろ、「この世はままならないよ」と言ってあげた方が良い。

・「ありのまま」で大丈夫だったら、こんなに苦しい訳がない。

・仏教の本の良いところは、もの見方が変わるか、ずれるということだ。

・「生きる意味より、死なない工夫」

大急ぎで書いたので支離滅裂ですが、関心のある方は動画をご参照ください。
posted by いわし雲 at 21:47 Comment(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2018年01月30日

南直哉さんの話と若住職さんの話 -3

昨年の秋、ブログサイトをWPに引っ越ししました。
その時から、ブログのデザインなどの失敗をいまだにいろいろと引きずっていますが、新しいブログに持って行かなかったカテゴリがあります。
それは、南直哉さんのカテゴリです。

何故持って行かなかったかというと、南直哉さんが言っておられることに私の理解が追い着かず、今後の記事の更新が覚束ないと思ったからです。

昨年、私の友人のドランさんが、禅と福音という本を自分が読み終えたということで手渡してくれました。
彼はカトリックのクリスチャンで、週に一度は教会に行っているようです。
先日は、『四谷の教会に行ったら、「ひふみん」が来ていた』と言っていました。

それで、彼には申し訳ないのですが、まだなかなかこの本を読めずにいます。
対談で会話文であり、各頁ごとに時々下欄に解説が載っていて読みやすい体裁なのですが、なかなか読み進めない。

以下は私の勝手な想いですが、何故、南直哉さんの言っておられることに私の理解が追い着けないか、ということです。
・私自身が実存を理解できていない。
・輪廻を否定しておられる。
・宗教としての仏教に否定的である。
・本当の自分という考え方に否定的である。

例えば『本当の自分が分からない』という質問に対して、南直哉さんには、『本当の自分ではないと言っている自分とは、一体何なのか。その自分を見ている自分が他にいるのか』と言われそうです。

しかし、ユングのペルソナ(仮面)の概念に賛同している私的には、そのような質問は当然だと思っています。
粗っぽい言い方をすると、お笑い芸人の方々が、プライベートでもいつもニコニコしている訳ではないでしょう、という感じです。
相手に応じていろいろなペルソナを演じているうちに、本当の自分が分からなくなるということは、あり得ることだと思います。

タイトルの話はどうなっているのかと言われそうですが、昨年のお盆に若住職さんが来てくださった時のことを、タイミングを考えず備忘録的に書いておこうと思ったのがこの投稿の動機です。

一昨年のお盆に私が南直哉さんのことを話したことを覚えていてくれたのか、若住職さんに次のように切り出されました。
『今度、東京でシンポジウムがあり、初めて南直哉さんにお会いしてお話することになりました。これから南直哉さんの本を読んで勉強します』

お盆以外に若住職さんにお会いする機会はないので、どういう話をされたのかはその後伺っておりませんが、また機会があればお聞きしたいと思っています。

私がその時何を言ったのかよく覚えていませんが、多分
『南直哉さんは切り口が斬新で、そのお話はいつも魅力的です。仏教哲学の形而上学的なことをよくお話されています』と言ったのではないかと思います。
posted by いわし雲 at 21:16 Comment(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

相変わらず実存は分かりませんが

相変わらず、私には実存というものがよく分からないので、南直哉さんのブログの話も理解できないところが多い。
それで今日は余り考えず、検証もせず(「あなたはいつもそうじゃないか」と言われるかも知れませんが)、私の中にある素朴な疑問を書いてみます。

「実存主義」は19~20世紀頃、キルケゴール、サルトル、ニーチェなどによる思想で、その後、日本語で「実存」という言葉を当てたのだと思います。

一方、仏教発祥は紀元前2~3世紀で、インドから中国を経て日本に伝来したのは、6世紀のことだと思います。
私が学生の頃は「仏教が来てご参拝」と西暦538年と語呂合わせで覚えていましたが、今では諸説があって数十年の違いがあるようです。

疑問は、「悟り」「解脱」「無常」「無我」などの仏教から派生したと思われる言葉がありますが、当時はなかった「実存」が何故、今出てくるのかということです。
現代人には「実存」という説明の方が分かりやすいということなのでしょうか。
鎌倉期以降に、「実存」に近い意味の日本語が現れていて然るべきではないのか、という話です。

そんなことを思いながら、以前に私の記事で言及した「Webでも考える人」の「アニミズムと仏教伝来」を開いてみると、私がこの連載について勘違いしていたことが分かった。
「アニミズムと仏教伝来」という連載でなく、「超越と実存」の連載だった。

『本論考は、この「実存」と「超越」の思想的関係を、ゴータマ・ブッダから道元禅師まで追跡しようというものである』と南直哉さんが「アニミズムと仏教伝来」の初めの方に書いておられました。
超越と実存」の連載記事の始まりが「アニミズムと仏教伝来」であり、その後も連載が続いていることを知りませんでした。
まさに、「木を見て森を見ず」でした。
私が以前に記事に書いた時には、まだ、この「超越と実存」の連載の全体が表示されていなかったので、勘違いしたのだと思います。

うまく説明できず恐縮ですが、もし、私と同じようにこの「超越と実存」の連載の構造がよく分かっていない方がおられたら、上記の「超越と実存」の緑色のリンクを参照してみてください。
全体の構造が理解できると思います。
このウェブサイトのpvが増えた頃に、書籍として出版されるのかな、と思います。

この中で、私が惹かれる「法然」「親鸞」についての言及が次のとおりあった。

『法然の革命(5)』
『法然における「絶対」(6)』
『仏教を突破する親鸞(7)』

全てを読んで理解した上で何か書ければいいのだけれど(『白い一日』風。小椋佳 、井上陽水。)、理解が及ばないので残念ながらそういう訳にはいかず、述べられている内容で、いくつか気になった点だけを書いてみます。

一つ目は、『法然の革命(5)』の中で、
「『古事記』的アニミズムを底流としつつ、まさに「ありのまま」主義的形而上学たる「天台本覚思想」が形成過程にあった思想状況において、彼はいきなりキリスト教のごとき「一神教」のパラダイムを導入したのである。これほど妥協なき超越性を主張する思想は、彼以前の日本には一つもなかった。」
と記されている点です。

『キリスト教のごとき「一神教」のパラダイム』という考えは、斬新で少し「どきっ」とした。
確かに、「仏教」という枠組みを取り払ってしまえば、「阿弥陀如来」を一神教の神として成り立ちそうです。


二つ目は、『法然における「絶対」(6)』の中で、
『法然の思想では、念仏しさえすれば「誰でも」成仏し、救済されるということになる。すると、死後に漏れなく来世で絶対的に救済されるなら、生前現世では「ありのまま」でよいではないか、という発想が現れてくることが予想される。』
と記されている点です。

ここは異議ありです。
蓮如上人が「御文章」の中で、
『ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり。』と言っており、
これは親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えているということなので、整合が取れないのではないかと思います。

このことについての言及がないのは、残念です。


三つ目は、『仏教を突破する親鸞(7)』の中で、
『本論考で私は、法然に帰依する以前の親鸞に触れず、彼に対する法然の影響に関説しない。注目するのは法然との連続ではなくて非連続である。私は、この非連続はあくまで非連続なのであって、巷間言われているように親鸞は法然の思想を「発展」させたわけでも「深化」させたわけでもない、と考える。二人は問題設定とパースペクティブが異なるのだ。』
と記されている点です。
 
私は普通に『親鸞は法然の思想を「発展」させた』と思っていたので、これは意外だった。
親鸞の言葉として、『法然となら地獄までも付いて行きたい』『法然の言うことが嘘空言でも、後悔しない』ということを私は自己流に断片的に覚えていましたが、「非連続」という考えは思い浮かばなかった。。。

その後に出てくる「『歎異抄』の言葉」の小見出し以下の部分は、私が親愛する親鸞聖人を誹謗しているように聞こえ、実は心中穏やかでない。

『「信じるとは何か」と問う人間が、同時に「信じる」ことは不可能である。』という内容については、私は必ずしも納得できず、その後の論理の展開についても、少し乱暴で、正しいとは確信できない。
「不可能である」というのは、経験的にそれこそ、そのように「信じている」からではないのでしょうか。

「信じる」という言葉の定義にもよるが、「一度信じたら、未来永劫修正されることはない」というのであれば、逆にちょっと危ないような気もする。

あとは時間の概念で、昨日の私と今日の私が同じ存在であり、昨日と同じことを信じているというのは、記憶でしかないのと思う。
それが当たり前のことかどうかは分からない。


私にもう少し知識と理解力があれば、正面から反論したり、あるいは逆に、同意して話を拡げることができるかも知れませんが、現時点では残念ながらそのようなことはできません。
またまた中途半端な内容になってしまい、最初の疑問についても掘り下げることはできませんでしたが、この辺りで終わります。


[前回のクイズの答え]:『いつもと同じ』でした。
posted by いわし雲 at 18:15 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

南直哉さんの話と若住職さんの話 -2

(suite)

前回記事が長くなりそうだったので、いったん終わって、すぐに続きを書くつもりでしたが、時間が経つと途中から書き出すのは難しいですね。


さて、若住職さんのお話ですが、まず、わが家でのお盆の状況をお話しします。

宗派や地域、人によって風習は異なると思いますが、うちの場合は、良く言えばとてもシンプルです。

お寺は、浄土真宗本願寺派です。


お寺から1か月ほど前に「8月〇日〇時頃お伺いします」という葉書が届いて、小さな仏壇にお花などのお供え物の準備をしますが、近くに親類がいないこともあって、人が集まったり会食をしたりすることはありません。

出席者は私と嫁、そして子どもが家にいる日だと子どもが加わるといった按配です。


冊子を配って、みんなでお経を唱和することもありません。

若住職さんが猛暑の中、スケジュールを組んで自分で軽自動車を運転して檀家を回ってくださるので、滞在時間も短くなります。



今頃になって気がついたんですが、若住職さんがお経を上げる時、前段は経典を漢字で読んでいるようで難しくてよく分からないのですが、終わりの方はお経ではなく普通の言葉で語っておられました。

前段で、「無明」という言葉が何度か出てきたので、その日の直前まで読んでいた五木寛之さんの「私訳 歎異抄」を思い出した。


『阿弥陀仏とは、数ある仏のなかでも、わが名を呼ぶすべての人びとをもれなく救おうという誓いをたて、厳しい修行のもとに悟りをひらいた特別の仏であるとされる。

阿弥陀とは、Amitayus(アミターユス:永遠の時間)、Amitabha(アミターバ:限りなき光明)を意味し、その誓いを本願、その名を呼ぶことを念仏という。』

(「私訳 歎異抄」PHP文庫から)


ふと、阿弥陀仏を知らない人、例えば他宗派、神道、クリスチャン、宗教に関心のない人など、念仏を唱えないの人は救われないのかという疑問が浮かんだ。


少し話が飛躍しますが、欧米人はキリスト教が中心だと思うので、仏教に関心がある人は少ないと思う。

鈴木大拙が英語の書物で『ZEN』を広めましたが、臨済宗なので阿弥陀仏は出てこない気がする。


そう言えば、地元の名刹に友人と庭園を観に行った時、たまたま廊下に出てきた作務衣を着た若い修行僧と出くわし、「こんにちは」と言われ「こんにちは」と答えたことがある。

青い目の女性の修行僧だった。

髪は剃髪ではなく短く刈っていたが、そのお寺はやはり臨済宗のお寺だった。



それで私は、阿弥陀仏は心の広い仏様なので、念仏を唱えなくても御心にかなった人は皆救われるのだろうと勝手に思っています。


お経が終わってお茶の時間に若住職にこのことを尋ねてみたところ、『それは「縁」でしょうね』と答えられた。

時間がなくてそれ以上のお話はなかったが、何となく納得できた。

阿弥陀仏に縁あって出会うということではないと思う。


私の勝手な考えですが、因果律の考えからすると、良い種からは良い果実がもたらされると思うが、それがいつ実現するのか、あるいはこの世で実現されるかどうかは分からない。

あの世は時空を超えるといっても、無限大に近いところで(言葉に矛盾がありますが)もたらされるのであれば、実現しないことに近い。


植物の種子に譬えると、良い種が土の中にあっても、適切な温度、空気や水、太陽の光などがないと、芽を出して生長し、果実を得ることはできないのではないか。

それらの条件を恐らく「縁」というのではないかと思う。

ただ、この世で起こることと、あの世のことを一緒に語るのは、親鸞聖人が言ったこととは異なるかも知れない。



『仏教徒の中に「実存」ということを主張される方がおられるようですが…』と躊躇いながら訊いたところ、

『仏教だけでなく、他の宗教でもおられますよ』とあっさりしたものだった。


『南直哉さんという曹洞宗のお坊さんが、「実存」に基づいたお話をブログなどでされています』と言ったら、意外にも若住職さんは南直哉さんをご存じであり、仏教界で影響力を持つ偉いお坊さんであることを知らされた。

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posted by いわし雲 at 22:10 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

南直哉さんの話と若住職さんの話

先日来、ブログ画面のデザインを直そうとしていろいろやっていますが、右サイドバーの行がズレているし、プロフィールの画像も小さくならないし、なかなか思うとおりにならない。
ただ、「カテゴリ」の使い方が分かったので、過去記事を整理したところ、自分でも探しやすくなった。

この中に「南直哉さん」を入れたのは、引き続き関連した記事を書こうと思ったためですが、なかなか書くことができません。

最初の記事で書いた頃から南直哉さんのブログ「恐山あれこれ日記」を「はてB」で追いかけていますが、正直、難しくて理解できないことが多い。
大体、10の日に更新されているようです。

「実存」という言葉を165km/hのストレートで連続して投げ込まれているような感じで手も足も出ませんが、「実存」という言い方にはこちらも慣れてきました。
しかし、私には「実存」という考え方が分からず、まだ受け容れていないので、そこから先の理解ができない状況です。

なお、私が「分からない」「理解できない」などと書いているのは、論理的にこの結論しかないというところに至らないということではなく、ずっと緩く、感覚的に「何となく納得できる気がする」という程度にまで至っていないという意味です。

今年の5月30日の南直哉さんのブログで、 
『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う』といきなり書かれており、少しショックを受けたが、後でよく読んでみると『多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた』と書かれていた。

どこかで『業を返すために輪廻がある』と聞いたことがあるので、以前私は何となく『そうなのかな』と考えたことがあるが、やはりそのように語られてきたんだと少し安心した。
それに、『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だ』と言っておられますが、「輪廻」が「ある」とか「ない」とは言っておられない。

最近の南直哉さんのブログを読むと、多分、南直哉さんの境地に至っては、輪廻があるとかないとか、あるいは、自己と他者という概念そのものが「どうでもいいこと」と思っておられるのではないか、と愚考しております。

凡人たる私の周りで、「仏教と実存」などと言っている人はいないので、実態はどうなのかと思い「曹洞宗 実存」「仏教 実存」で検索してみると、山ほど出てきた。
「実存」が仏教の主流というか本質的な考え方なのかな、とも思ってしまうがよく分からない。

「Webでも考える人」で南直哉さんの「アニミズムと仏教伝来」という興味深い連載も見つかった。

時間的に前後しますが、この「仏教と実存」などについて、今年もお盆にお経を上げに来てくださる若住職さんに尋ねてみようと思った。
といっても、真正面から「〇〇とはなんぞや」などと訊くのではなく、市井のお坊さんの一人としてどのように感じられているか尋ねてみたいと思っただけです。

「私の手になりなさい」で書いたように、今のお寺とは私の父親が亡くなってからのお付き合いで、お盆以外に特に交流がある訳ではありません。
お盆に来てくださるのは、最近はずっと若住職さんで、40歳代の聡明な方です。
他宗派やキリスト教などにも造詣が深い。

正式なご住職は若住職のお父さんで、10年ほど前に地盤のせいかお墓が傾いてしまったため、補修工事の相談をしたことがあります。
知人から「入魂・脱魂式」をしなければならないと聞いていましたが、愚かな私は、ご住職にそのまま『お墓の補修をするので、「入魂・脱魂」をして欲しい』と言ってしまいました。

暫しの沈黙の後、ご住職は怒るでもなく『私にそのような力はありませんが、お墓の補修をされるというのであれば、お墓に行って読経しましょう。工事の間、ご遺骨は当寺でお預かりしましょう』と言ってくださった。
何かとても恥ずかしい思いをした。

今年のお盆の話は、現在の私の考えを整理して保存するため、引き続き書いておこうと思っていますが、別に特筆すべきことはありません。
気が向いたら、覗いてみてください。
ラベル:実存
posted by いわし雲 at 17:44 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

南直哉さんの話の続き

今年3月に書いた「南直哉さんの話を聴いた」の反響が大きかったので続きを書いてみようと思った、などと言うことができれば少しは体裁が良いと思うのですが、お察しのとおり反響など全くありません。

ただ、その記事の内容と、その中で引用しているYouTubeの動画を改めて見直してみると、間違いや私の思い違いがあることと、その後に変化があったので、少し書いてみます。

まず、前回、
『話を戻して、南さんは当然後者の話をされるのかと思ったら、「私たちは気がついたらこの世にいて、勝手に名前を付けられ、共同社会の中に組み入れられている・・・」というようなことを話され、本心がどこにあるのか分かりませんが、「えっ?」と思ってしまいました。』
と書きましたが、引用しているYouTubeの動画「宮崎哲弥・南 直哉 私とは何なのか?」 の中では、語られていないようです。

別の動画で観たのだと思いますが、見つけることはできませんでした。
ただ、南直哉さんが語られたことは確かです。

ちなみに、この動画の 35:38~ 辺りから『老師と少年』の本を出版した後、『ストレスが溜まる書物だと言われた。・・・』と南さんは語っておられます。
私も読んでみましたが、確かに理解が及ばなかったこともあって、ストレスが溜まりました。

例えば、「第七夜」の老師の言葉を引用してみると次のようになっています。

『自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生きているのではない。生きているのだ。問いはそこから始まる。「自分」からではない』・・・と続いていきます。

私には訳が分からない。

私はこの本を読む前から、上記で最初に引用した私の前回の記事の箇所から推察できるかもしれませんが、『ひょっとしたら南さんは「実存主義」なのかな?』と薄々思っていました。

だとすると、
『サルトルのように「人は勝手に生まれて勝手に死んでいく。そこに神の介在はない。」という考えと、「今あなたがいるのは、神様や仏様の意思であり、人はそれぞれ意味を持って生まれてきたのだ。」という考えの対立です』
と私が書いたのは間違っているのでしょう。

先入観から、私が勝手に「実存的な考え」と「宗教的な考え」は対立していると思って書いたからです。
そういう捉え方自体が間違っているようです。

キリスト教神学者の中にも「実存主義」的な人も沢山いるらしい。


大体私は、「本質」よりも優先される「実存」という考えが分かっていないし、どうも人によってそれぞれ「実存」と言っている内容の格差が大き過ぎると思っていて、余り深入りしたことはありませんが、何となく勘で「これは実存的な考えかな?」という感じはあります。

若い頃、ニーチェの「ツァラトゥストラ」に何度か挑戦しましたが、いつも最初の方の「見よ、超人が山を降りて来た」?だったかの辺りで撃沈され、3~4連敗したままです。

全然関係ないんですが、思想的な書物以外の別のジャンルの入門書的な解説書で、『・・・については、実存的に理解することが大切である』などと記述されているのを読んだことがありますが、大抵は以前から私が漠然と思っていたように、単に「あるがままに受け入れる」というような意味で解釈すれば、意味が通じるような気がしています。
大袈裟に書かなければいいのに、と思いました。
私の考えが浅いのかも知れませんが。


さて、この記事の上の方で「その後に変化があった」と書いたのは、いろいろ調べているうちに、南直哉さんが書かれているのであろうブログの【「恐山あれこれ日記」『「業」について』(2016年05月30日 | 日記)】に行き着き、その中で、「実存」という言葉が直接何度も出てきたからです。
「やはりそうだったのか」という感じです。

いきなり、『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。』という書き出しで始まっているのも衝撃的ですが、今はそこまで考える余裕がないので、取り敢えずそこはスルーします。

南直哉さんの話は、納得できるものが多く、強く惹かれるので、今後も勝手に付いていくつもりです。


なお、「還暦ともやもや」でのクイズの答えは、コメントをいただいたとおり、日月火水木金土 → 英語表記で「W」です。
posted by いわし雲 at 20:32 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする

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