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2017年03月10日

Hey Judeと占い師の話、ユングの性格診断

先週来、記事の本文を少し左寄りにして、右サイドとの間を空けよう、などとブログのデザインをいじったところ、右落ちしたり、記事が表示されなくなったりと散々でした。
その間に覗きに来てくれた人がいたら、申し訳ありませんでした。
継ぎ接ぎだらけコマンドなので、どれが有効なのかよく分からず、重複していると思われるコマンドを削除したりすると問題が起きたりします。
まだエラーは出ていますが、なんとか表示は改善されたと思っています。


さて、The Beatles に「Hey Jude」という曲があります。
私がこの曲を初めて聴いたのは、ビートルズが解散してかなりの年月が経過した後でしたが、「良い曲だが、とにかく長い」というのが、当時私が抱いた印象でした。

その頃は英語が全くできなかったので、歌っている内容も分かりませんでした。
たまたま『ヨーロッパで柔道の人気が高まっている』というTVニュースを観たせいか、最初に聴いた頃には『英国に来た日本の柔道家を讃えた曲なのかな』とひどい勘違いをしていました。。。


その中で、『Don't carry the world upon your shoulder.』という歌詞が印象に残っています。
「何でもかんでも一人で背負わず、肩の力を抜けよ」という感じでしょうか。

どうでもいいことを気にしがちな私にとっては、
『変えることができないこと、自分に直接関係のないこと、自分が関心を持っていないこと、に余り神経を使うなよ』と言われているような気がします。


脈絡なく話は勝手に飛びます。
ビートたけしの「たけし吼える!」(飛鳥新社)を読んだことがあります。
(多分)その中に、良く当たると言われている占い師の話があった。

その女占い師は、相談に来たお客の表情と手相を見て、
『あなたの悩みは、仕事(経済的問題)か、人間関係か、健康上の悩みですね。今は辛いでしょうが、そのうちにだんだんと良くなってきますよ』などと言うそうです。

これに対してビートたけしは、例の毒舌で、『人間の悩みなんて、そんだけしかねぇんだよ。そんなの放っておきゃあ、そのうち何とかなるんだよ。しょうがねぇなぁ』と言っていたと思います。

このように考えることができれば、良いと思う。
生きていく上で、忘れる能力、気にしない能力は、適度にあった方が良い。


ユング心理学で、性格タイプの話が出てくる。
性格診断などに関心がある人で、私よりも詳しい人も多いと思うが、私なりの単純な理解は次のとおりです。

「思考」と「感情」、「感覚」と「直観」、「外向」と「内向」という対立した概念が、それぞれ両端方向に向いている直線を考える。
その3本の直線を空間座標のx,y,z軸のように、原点で互いに直交させる。
その3本の軸で区切られた8つの領域のどの位置に属するかによって、性格の傾向の強さを分析する。

というものです。

ちなみに、ユングは一時期同僚だったアドラーを見て、人間には内向的な性格の人もいるのだと気づいて、「外向」と「内向」という軸を考えたという話もあります。

性格タイプを考えるときの前提として、

①性格の優劣を決めるものではない。
②性格は固定されたものではない。

ということがあります。

余り考えずに言ってしまいますが、
①は人それぞれに得手・不得手があるので、そうなのだろうと思う。
自分の性格に合った時代や環境の元では、人は生活しやすいと思う。
②は自分の子どもの頃からの友達のことを考えてみると、当時、内向的で口数の少なかった人が、大人になったら社交的で喧しいくらい喋るようになったことを思い出した。
本人の性格が変わったのか、元々内に秘めていた性格が弾けるように外部に表れただけなのかは分からないが、外から見ると性格が変化したように見える。

この性格タイプというものが使えるものであれば、自分の思考・行動傾向が理解できて、生きていく上で役に立つかも知れない。

net上に「ユング心理学による性格診断」というものがいくつかあったので、試しに1つやってみた。
すると、「非合理的内向・感覚タイプ」となり、『人から誤解を受けやすく、直観による将来的見通しが苦手で、方向音痴が多い』などとひどい結果だったが、残念ながら当たっているようだ。

そういえば、人の話を伝えるのが下手で、何故か自分が言ったことになったり、私が人の悪口を言っているように受け取られたりと、確かに誤解を受けて非難されることが多かった。。。


今日はまた、思いつきでとりとめのない、少し湿った話になってしまい失礼しました。

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)
Wikipediaから

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posted by いわし雲 at 17:46 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

「高校三年生」と勘違い

人は誰でも「勘違い」をするとことがあると思うが、周りの人や世間に迷惑を掛けるものでなければ、別に他人がどうこう言うほどのことではないと思う。
と言うか、他人のそんなことにいちいち構っていられないというのが実情でしょう。

普通は直ぐに、あるいは数日して、大抵自ら「オレも馬鹿だなぁ」と勘違いに気がついて解決することが多いのではないかと思う。
ところが、場合によっては数年以上経って自らの勘違いに気づき、唖然とし、恥ずかしい思いをすることがある。

何が言いたいのかと訝しむ向きがあるかも知れませんが、一つは前回の記事で私が要らぬクイズを出したことです。
もし、迷惑を掛けていたらすいませんでした。


もう一つは、以下に書くことについての、表題に関する幾ばくかの言い訳です。
・・・・

舟木一夫に「高校三年生」という曲があります。
1963(昭和38)年にリリースされ、当時、滅茶苦茶売れたらしい。
流石に、私はこの曲が出た時のことは知らないが、不思議に歌えるくらい覚えている。
多分、TVの「懐メロ」番組などで度々放送されたためだと思う。
・・・

また話が飛びますが、私が子どもの頃にはTVのゴールデンタイムに時代劇が放映されることが多かった。
父親が時代劇が好きだったので、私も自然と観ることが多かった。
大体、1時間番組だと30分過ぎくらいから殺陣が始まって、その後、それが治まって暗黙的に約束された視聴者が望む結末となる。

そこには、今では考えられない法治を超えた強大な「権威と力」があり、「勧善懲悪」の思想があった。
当時私もそんな番組を観て「すっきりした」気持ちになった。

その中で少し異色だったのが、NHKで何曜日か忘れましたが、多分19時30分頃から放映されていた「鳴門秘帖」だった。
主演は田村正和、三林京子で、「カピタンの旦那」とかが出てくる。
敵方のカピタンはCaptainで、船長のことらしい。
カピタンはクリスチャンで、額に十字架の刺青のようなものがあったと思う。
番組中の間奏の三味線も絶妙で、いつも観ていた訳ではないが場面や展開も面白かった。。。
こんなことを知っている人は殆どいないと思うので、この辺でやめますね。

検索してみると、時代的には私のイメージとは異なり、「鳴門秘帖」は舟木一夫から、かなり後のようだった。
残念なことに、私の頭の中では同じ頃の感じです。
大丈夫かなぁ。

何で時代劇の話をしたのかというと、舟木一夫の曲については「銭形平次」の主題歌の方を長く聴いた記憶があるからです。




それで舟木一夫の「高校三年生」ですが、歌詞の中で
「ぼくら離れ離れになろうとも くらす仲間はいつまでも」 
というところがあります。

これは、私にとって不思議で、何で「離れ離れ」になっているのに「暮らす仲間」なのかなぁ、とずぅーっと思っていました。
・・・・

何年かの時を経て、「謎は全て解けた」。
TVも以前より進化したらしく、懐メロでも歌詞が画面の下に流れるようになった。
それで「高校三年生」を視聴した時には、「あーっ」と声を出してのけ反ってしまった。
「暮らす仲間」ではなく「クラス仲間」だったのだ。

「クラス」という言い方は普通にあったし、「クラスメイト」という言い方も、マイナーではあるが理解できていた。
しかし、当時私の周りで「クラス仲間」という言葉は聞いたことがなく、意識にも上らなかった。

それで何年もの間、私は勘違いしていた訳です。
少し恥ずかしい勘違いの話でした。



posted by いわし雲 at 20:34 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2016年11月13日

鉄棒の話

ぶっきらぼうに鉄棒と書いてしまいましたが、何のことかと言うと、器械体操の鉄棒のことです。
小学生の頃、私が一番好きだったのはサッカー、野球などの球技でしたが、実は鉄棒も得意だった。

鉄棒が好きな子どもも珍しいと思うが、後に体操部に入った友だちと一緒に、当時住んでいた近くの公園で次々と新しい技を開発していた。
と言っても、新しい技と思っていたことは、後から見ると大抵「背面逆上がり」などと正式な名前がついていた。

年寄りが昔のことを自慢するようで少し嫌なんですが、後半に関係してくるので、少しだけ我慢してください。

「飛行機飛び」「巴」「こうもり」など、当時の技を思い出します。
「こうもり」は膝の裏に鉄棒を挟み、両手を離して身体を振って手を付かずに着地するという技なんですが、これは直ぐにできるようになった。

ところが、その友だちが『鉄棒の上に座って両手を離して後ろに倒れて、膝の裏で鉄棒を挟んで回転し、手を付かずに着地しよう』と、とんでもないことを言い出した。

これは正直怖かったが、暫くして二人とも結局できるようになった。
しかし最初、私は一人で児童公園の鉄棒で、『えいや!』とやってみたが、足が外れて頭から落下して痛い思いをしてしまった。
やはり、怪我をしないためにも年長の補助者などと一緒に練習した方がいいですね。

それで、その現場を見ていた年下の子どもがいたようで、何日かして再びその児童公園に行ったら、離れたところで指差して『あの人、この間鉄棒から落ちた人だ』などと言っている。
少しむかついた。
・・・・・

その後、暫く鉄棒からは離れていたが、中学校の体育で「蹴上がり」の練習をすることになった。
「蹴上がり」は見ていて格好がいいが、難易度が高く、自分ではまだ無理だと思っていた。

案の定、クラスの男子生徒で「蹴上がり」ができる人は、1人いるかいないかであった。
が、何度目かの授業で、できる人が増えてきた。
私も、「よじ登る」という感じで、格好がいい訳ではないが、60~70%くらいの割合でできるようになった。

できるようになった理由は、「手首を返す」という自分なりのコツが分かったことだ。

思えば「背面逆上がり」の時、最初に鉄棒を掴んだ状態のままだと、力を入れてもいつまで経っても上に上がれないことに気付いて、「手首を返す」ことを覚えてできるようになったことがある。
多分、最初の掴み方だと、力を入れても鉄棒に上がる方向にうまく力が働かないのだと思う。
それで、「蹴上がり」でもやってみたところ、動きがあるので難しいが、何とかできるようになった。

ちょっとしたことだが、「できる」と「できない」の違いは、子ども心に大きな違いだ。
コツについては、これくらいのことは誰か教えてくれれば良かったのにと思うが、できる人はそんなことを考えず、やっているうちに自然に身体が覚えてできるようになったのかな、と思う。
・・・・・

今の地に来て、近くの児童公園に行った。
当時から40年くらい経っている。。。

今は鉄棒など全くできない。
以前は、8回くらいは普通にぶら下がり懸垂ができていたが、今は0回。
中年になって太ったからだと思う人がいるかも知れないが、事実は逆で、筋肉が溶ける症例が発生したためで、今までの「やや肥満」から10数kg痩せて「痩せ」になってしまった。

それで、筋トレと五十肩の再来を克服するため、今の近所の児童公園で「斜め懸垂」や「ぶら下がり」をやっていた。
少し高めの鉄棒に私はいたが、繋がっている低めの鉄棒に小学校の中~高学年の男の子と若い母親がやって来た。

いきなり子どもが逆上がりをした。
『元気があって、いいな』と思ったが、母親が急に『逆上がりは順手で行わなければいけないんでしょう?』と真顔で私に話し掛けてきた。

突然のことなので、『正式には、そうだと思います』と曖昧に答えてしまった。
すると、その子は何も言わず、順手で逆上がりをしたが、最後のところで鉄棒に上がることができず、元に戻ってしまった。

思わず、昔の経験から『鉄棒に上がる最後に、手首を返さないと上がれないよ』と身振りを交えて言ったところ、その子は無言で行動に移し、逆上がりができた。

つい、『凄い!』と言ってしまった。
母親は『ありがとうございました』とお辞儀をして、二人とも帰っていった。

「えっ?」と思った。
私がその子なら、筋力が回復する5分程して成功率70%くらいになって、「できる」という自信を持ってから帰ると思うのだが。
鉄棒にそれほど執着はなく、小学校の授業で指摘されたことを解決したということなんでしょうか。

ま、私の言ったことで、もやもやが少しでも解消したのなら、それはそれで良かったと思う。
以上、自己称賛の話でした。


この母親が何故話し掛けてきたのかと少し考えたところ、恐らく同じ町内のおっさんだろうと安心していたからかな、と思った。

たまに市の中心部に行くと、時間に余裕がある時には、私はぼーっしてとチンタラ歩いていることが多い。
それで、話し掛けやすいのか、道を尋ねられることが他の人より多分多い。

井上陽水の「御免」ではないが、方向音痴の私に道を尋ねるとは『あなたも運の悪い人だ』と気の毒に思う。
途中に何があってどう進んだらいいか、とか訊かれると順番は覚えていないのでお手上げだが、○○町の〇〇ビルの〇〇はどこですか?と訊かれると、そのシーンが思い付くことがあって、半分くらいは役に立ったと思う。

何の話かよく分からなくなってきましたが、人はそれぞれ都合があって行動しているのだろうと改めて思ったということです。


[おまけのクイズ]
今日は一見マジメな文学関係の問題です。
でも、私は読んだことは覚えていても、内容や読後自分がどう思ったかということは、全く覚えていない。
最近は小説を読む元気がありませんが、以前、どんな小説を読んでいたかな、ということで思い付いた、また曖昧な記憶に頼った問題です。
間違いがあったら申し訳ありません。

①「夜になってミッシェルは話し始めました」で始まる小説名。
②「親があっても子は育つ」と言った戦後の日本の作家。
posted by いわし雲 at 22:03 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

性善説という言葉

ずっと以前から使われている言葉ですが、ニュース記事などで最近また「性善説」という表現が多くなったと思います。
ここで言う性善説とは、様々な制度や施策を実施するに当たって、嘘をついて申請する者はいない、というような話です。

それで、このような前提に立って制度を作って運用しているため、本来、対象とならない人が虚偽の申請を行うなどして不正に利益を得る場合があるということで、「性善説が前提となっている制度とその運用を見直して、審査や罰則を厳しくしろ」という結論に至ることが多いようです。

それはそうでしょうし、そのことを「性善説」と表現するのは分かりやすいのですが、私にはいささか抵抗があります。
というのは、ダジャレのようですが、孟子に申し訳ないという単純な気持ちからです。

紀元前3~4世紀頃、孟子は「人の本性は善である」として「性善説」を唱え、後に荀子が「人の本性は悪である」と「性悪説」を唱えましたが、いずれも後天的な教育・徳育が必要だということは共通していると思います。

孟子は性善説を唱えましたが、「人は嘘を付かない」とは一言も言っていないので、ニュース記事などで言う「性善説」は本来の意味から外れていると思われ、私には抵抗があるのです。


初めて正式に孟子の性善説に向き合ったのは、多分、高校の漢文の授業だったと思います。
また脱線しますが、漢文の先生は生徒から見ると、長い髭を生やした小柄なお年寄りの先生で、時代や世間からはかなりズレている感じの人でした。

最初の授業で、男女がくっつけていた机を離すように言い、ただでさえ狭い教室なのに面倒なことでした。
次の授業の時に、元気のいい生徒がこのことに異議を唱えましたが、先生は怒るのでもなく、自分の考えや論理的な説明をするのでもなく、暖簾に腕押しという感じでその生徒も諦めたようでした。
「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということなんでしょうか。

こんな感じの授業で熱心に受講している生徒は殆どいませんでしたが、別のクラスの同級生の友人が授業中に指名されて質問に答えられず、先生から
『そんなことでは、大学の入試に受からんぞ』と言われ、
『僕は北京大学には行きません』と言い返したらしい。
変わったキャラの友人だったが、そんなことを言う奴だとは思わなかった。

この先生が授業中に「性善説」「性悪説」について説明したことがあった。
この時には、珍しく生徒が真剣な面持ちで聞いていた。
『この紙に譬えると、性善説と性悪説は紙を表面から見たのと裏面から見た違いだ』というようなこと言った。
で、そこでお終い。それ以上の説明はなかった。肩透かしのようだった。

少し捻くれていた私は、
『紙が人の本性と言うなら、紙の両端を180°捩じってセロテープでくっつけたらメビウスの帯のようになって表も裏もなくなるが、どうなるのか?』
と思ったが、それ以上は考えられなかった。

印象に残っているのは、ーーー今netで検索してみると内容が記憶と少し異なっていますが、
『井戸を覗き込んでいる幼子(おさなご)がいたら、盗人といえども走り寄って幼子が井戸に落ちないように助けない者がいるだろうか』
という孟子の言葉だった。

不条理なことが多い世の中ですが、私は「人の本性は善である」と信じたい。

ラベル:孟子
posted by いわし雲 at 20:04 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2016年09月08日

方向音痴と天気予報の話

毎回、方向性のない話で申し訳ないです。

それで実生活上でも、私は方向音痴で困っています。
何度か訪れたことのあるビル内でも、時々自分のいる場所が分からなくなるし、道を間違えることも多い。

また、給油するガソリンスタンドは、自分がよく通るそれぞれの道沿いの2店舗に大体決めていますが、たまたま車で近くまで行った時に立ち寄ろうとしたら、その道に直角にぶつかる交差点で、そこから右だったか左だったか分からず、50%に近い確率で大回りをしてしまう。
そして困ったことに、その次に同じ場面に遭遇した時に、以前にここで右に行くか左に行くか迷ったことは覚えているが、結局どっちが正解だったか忘れて同じ過ちを繰り返すという、学習効果が発揮されず情けない思いをすることが多い。

真偽は定かではないが、渡り鳥が毎年迷わずにやって来れるのは、鳥は地磁気を感じる能力が優れていて方向を間違わないためだという説を、昔、聞いたことがありますが、それが人間にも当てはまるとすると、私にはその能力が低いのかも知れない。

方向音痴のもう一つの原因は、空間把握能力が劣っているためだと思います。
サッカーやプロ野球の一流選手が球際に強く、ぎりぎりでボールに追いついてすぐ次の正確なプレーに移れるのは、この瞬時の空間把握能力が人並み勝れていることもあるのではないかと、実は密かに思っています。

ご承知のように私の記憶力も怪しくなって困っているが、不思議なことに大したことではないのに、ワンシーンだけを覚えていることが多い。ただ、その前後の経緯や、他の記憶とどちらが時間的に早かったかというのは、分からない。

例えば、夕方車を運転していたところ、急に降り出した雨に濡れながら自転車で帰宅する高校生と何人も対向したことがありました。いつ頃のことだったかは覚えていないが、あの道のあの辺りを走っている時だったことは何故か覚えています。
その時、隣に乗っていた同僚が、『朝、天気予報を見て来なかったのかな?』と言い、自分が何気に『今時の天気予報は都市部をピンポイントで言うことが多いからかなぁ』と言ったことも覚えています。


その天気予報ですが、ここ数年はTVを観る習慣がなくなったので無責任な言い方ですが、TVやnet、新聞で天気予報を見ても最近はよく分からない。
「実況天気図は一日7回(3、6、9、12、15、18、21時)の観測データをもとに解析を行い、観測時刻の約2時間10分後に日本周辺域の実況天気図を発表します。」(気象庁HP)とされているが、私の見に行くタイミングが悪いのか、日本気象協会のサイトに行っても実況天気図は4~5時間前のものになっていることが多い。
そして予想天気図がないことが多いのが辛い。
夏季ということもあるのかも知れませんが、最近前線の表示がないことが多いような気がして、ますます分からない。

何をグダグダ言っているのかと思われるでしょうが、要約すると天気予報への不満は大体次のとおりです。
・実況天気図が古い。
・一番知りたい明日朝の予想天気図を、前日の夕方~夜に見ることが難しい。
・天気図の前線の表示が減ったのではないかと思うほど少なくて分かりにくい。
・ピンポイントで各都市部の天気を表示するが、説明がないので天気が西からどのように移り変わって行っているのか分からない。

という感じです。

このように書くと、いかにも私が天気図に詳しいかと錯覚される方がいるかも知れませんが、全然そんなことはありません。
ただ、子どもの頃から、19時前の天気予報は「ヤン坊マー坊」ではなく、NHKの日本気象協会の方の天気予報をよく観ていました。
そこでは実況天気図を説明してから予想天気図に進み、西から順に天気予報を行っていて分かりやすかった。

それで、『低気圧から伸びる温暖前線が明日には九州に近づき、九州では昼前から雨が降る所が出てくるでしょう』などと言われると、『あさっては雨かな?」と思うようになり、また昼間急に雨が降ってきても、『そう言えば昨日の天気予報で、寒冷前線が通過して俄雨が降るかも、と言っていたな』と思い出し、『この雨も1時間もすれば上がって少し冷たい空気が入って来るだろうな』と、天気図の勉強をしなくても少し分かるようになった程度です。

とりあえず、私のようなアナログ人間には「ピンポイントの天気予報」よりも、「西から順にこのように天気が変わるでしょう」
と言ってもらった方がありがたい。
しかし、台風や近年の局地的な豪雨の恐れがある時には、気象衛星や雨雲レーダーにも頼らざるを得ないことは理解しています。

ところで、予想天気図の等圧線を今で言う気象予報士の方がその場で描くことがあって、びっくりしましたことがありましたが、別の番組でその人が『実は気象大学校の学生からも訊かれたことがあるんですが、TVでは見えないように等圧線を予め鉛筆で描いておき、その上をマジックで描いているだけですよ』とバラされて、納得したことがあります。

で、結局自分でも何が言いたいのか分からなくなりましたが、勝手に終わります。


[おまけのクイズの回答]
前回の 「To be to be ten made to be.」の和訳は、ローマ字で読んで「飛べ飛べ天まで飛べ」でした。
高校の英語の授業で、ハムレットの「To be or not to be,that is the question.」を読んだ後で教師がこれを黒板に書き、私のような?純真な生徒はみんな騙されました。

[おまけのクイズ]
人からの又聞きで恐縮ですが、なぞなぞのようなものです。
「野球場で組み、車の中で上がると困るものは何か?」と尋ねられましたが、状況のイメージが浮かばず降参しました。
ラグビーならスクラムを組むのもありかなと思いましたが、ベンチで選手が足を組むことくらいしか思いつきませんでした。



ラベル:天気図
posted by いわし雲 at 23:55 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

コンビニとドア

私がよく行く1つか2つかのコンビニのドアは、手動になっています。
時々店に入る時に、たまに出る人がドアを開けて暫く手で開けたままにしてくれることがあり、私は「すいません」とか「ありがとう」と言って店内に入ります。

私も逆に同じことをしますが、別に意識してしている訳ではなく、たまたま店を出るためにドアを開けて出た時、目の前に店に入ろうとしている人がいれば、その人が入るまで2~3秒長くドアを手で支えているだけです。
殆どの人は何も言いませんし、私も期待もしていませんが、何人かに1人は、お礼を言ったり、お辞儀をされたりします。

先日は怖い顔をしたおやじさんが、小声で「すいません」と言ったのにはびっくりしました。
リンカーンは「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ」と言ったらしいですが、顔付だけでは分からないこともあるんだなぁ、と思いました。

そのおやじさんが、いわゆる良い人か悪い人かは分かりませんが、少なくても他人の些細な親切or要らぬお世話が分かる人であることは確かです。
posted by いわし雲 at 23:02 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2015年10月29日

帽子は嫌い(一部修正)

私は帽子が好きではありません。
子どもの時に、「刷り込まれた」のかと思っていましたが、20ほど歳が離れた後輩が、何かの文脈で、「僕は帽子を被った人が嫌いなんです」と言っていたので、満更そういうことではないのでしょう。

建物の中やTVのスタジオで帽子を被っている人を見ると、嫌悪感を感じて、TVならすぐに切ってしまったりしていました。ファッションだとしても、ちょっと嫌です。ジェロも好きでしたが、あの帽子姿は嫌でした。

TVは別にして、案外年寄りにこういう人が多いのが意外でした。頭髪を隠すためか、脱いで手に持つのが面倒なのかもしれませんが、酷い人になると、帽子を被ったまま病院や市役所などの公共施設、ケータイショップのカウンターに座って電話をしながら、手続きを行っている人がいます。
私は、みっともないと感じています。

ちなみに、プロ野球の試合などでは、ナイターにもかかわらず帽子を被っていますが、それについては全く違和感はなく、当然だと思っています。被らない方が、格好悪いと思います。「キャプテン翼」でゴールキーパーの「若林」が帽子を被っていたと思いますが、それも気になりません。

WIKIによるとエチケットとして、「もしその人物が家の中に入って来て、帽子を脱ぐようなら真の紳士。
帽子を脱がないのなら紳士のふりをしている男。
そして帽子をかぶっていない人物は、紳士のふりをすることさえあきらめている男。」
というのがありました。
私は3番目ですね。

さて、そうはいっても、真夏の暑い時期に屋外で作業をしたり、長時間歩いたり、スポーツをする人は、やはり帽子を被った方がいいと思います。

私が気になるのは、あくまで屋内での話です。

私が子どもの時、夏休みに親の実家に何日か遊びに行ったことがあります。かなりの田舎だったんですが、毎日、帽子を被らず小川や小高い山などを遊び回っていました。すると高熱が出て、酷い寒気も来て、結局医者が往診してくれて注射を打ち、「日射病ですね」と言われてしまいました。
やはり帽子を舐めてはいけないと思いました。

かなり年上の、もう高齢者に近い方と車に同乗した時に「何故、車の中で帽子を被るんですか?」と訊いたことがあります。すると、「夏場は車の天井が焼けて、頭が暑いんだ」と言われました。
今まで不思議に思っていたんですが、なるほど確かにそういうことはあるかもしれませんね。

まあ、それぞれ事情(特に外見からは分らないようなことも)があってのこととは思いますが、周囲を気にしての行動はして欲しいと思います。

私は、ファミレスなどに冬季に入る時には、入り口でコートを脱ぎます。
誰に習ったという訳ではありませんが、案内された席で脱ぐと、周りで食事をしている人にゴミが散らかるような気がして、他の客に不快な思いをさせるのでは、との思いからです。
こんなことは当たり前のことかもしれませんが、無頓着な人もいるので、そんな感覚を持つ人が少しでも増えてくれれば嬉しいです。
posted by いわし雲 at 21:57 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

2015年09月20日

行列への割込み

一時期、観光地での中国人が起こす行列への割込みの記事が流れたが、日本でも同様なことは起こっていると思う。
当然、割り込まれた方は腹を立て、トラブルに発展することも多い。
では、何故腹が立つのか考えてみた。

それは、ルールを守らず自分勝手な振る舞いををしたからだ、と言われれば、確かにそうだと思う。
しかし、もう少し考えてみると、相手(割り込んだ人or人々)がこちらの存在や人としての尊厳を無視したことに対して、大げさに言えば魂や自我の奥からの怒りが発生するためではないかと、最近思うようになった。
相手が、こちらの存在と全人格を否定していると感じるのだと思う。

また、自分の後ろにきちんと並んでいる人々に対して責任を感じて、割り込んできた相手に声を掛けて注意しなければならない、と思うのではないだろうか。

逆に、私の経験だが、コンビニから大渋滞している片側2車線の道路に車で右折で出なければならないことがあった。普段ならこういう時、左に出て先の信号のあるところで横道に入ったりして向きを変えるのだが、それもままならない状況であった。するとあろうことか、2車線の2台の車とその前の車がそれぞれ少しずつ動いてくれて、私がウィンカーを出していないのにもかかわらず、右折できるようにスペースを空けてくれた。幸い反対側の車線もその時は空いていて、お蔭で首尾よく右折して出ることができた。
この時は、本当にうれしかった。
さっきの話の逆で、見ず知らずの他人が私という存在を認め、わざわざ気を遣って対応してくれたことがうれしかったのだと思う。
posted by いわし雲 at 13:04 Comment(0) | TrackBack(0) | 生活・その他 | 更新情報をチェックする

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