今年のお盆にも、若住職さんが軽自動車を自ら運転して我が家に来て、読経してくださいました。
それを今さら記事にするのもどうかな、という気がしますが、備忘録として書いてみます。
まぁ、私のブログそのものが備忘録のようなものなのですが、記事の中でこの言葉が出て来たらご注意ください。
自分で言うのも何ですが、いつもにも増して面白くなく、無駄にダラダラと長い文章になってしまうことが多いです。
賢明な読者の方には、気合を入れて飛ばし読みをされることをお薦めします。。。
一応、次のことについて書こうと思いますが、入り乱れた内容になります。
・若住職さんの話
・南直哉さんと若住職さんのシンポジウムの書籍の出版について
・その他思い付き
今年の春、若住職さんから檀家に向けてお知らせの手紙が届いた。
『何かな?』と思って開けてみると、
『この度、現住職の後任として正式に住職となることとなりました。ついては、次のとおり関連の行事を執り行うので、ご案内申し上げます・・・』というような内容だった。
お父さんである前住職から住職を引き継いだということで、そのことには別に驚かなかったが、『近くのお寺から当寺まで稚児行列を行います』には少し驚いた。
お寺の事情はよく分かりませんが、私は稚児行列は聞いたことはあるが観たことはなかったので、『そんなに大袈裟な行事を行うのが普通なのかなぁ』と思い、また、ご住職のお寺は浄土真宗で、その近くのお寺は臨済宗なんですが、『宗派が違っても、そこは関係ないのかなぁ』と思った。
ということなので、今後は(次の行から)今までの「若住職さん」から「ご住職」と言うことにします。
それで、上述のように今年のお盆にもご住職が来てくださり、短時間の雑談ができた。
もともとのお寺が戦災で焼失し、現在の地に移転した話などを伺った。
そして、昨年ご住職からお聞きしていた「南直哉さんとのシンポジウムの書籍の出版について」改めて訊いてみた。
すると、結局、一般の市販本ではなく非売品として出版したとのことであった。
私は厚かましく、『その本を是非譲ってください』と言った。
数日後、ご丁寧にも、他の本と一緒にその本が郵送で届いた。
しかしまだ、お礼も言っていない不義理の私です。
・・・・・
(ここで編集中の記事の一部が消えてしまった。。。ガクッ。書き直してみます。)
・・・・・
その本のタイトルは、
『曹洞宗総合研究センター第19回学術大会 「人を裁く」事の意味を問う ~一般社会と宗教の「善悪」観について~ 講演録』 H.29.11.2 10時~12時 と、
なんか長くて難しそうだ。
ボリュームは100頁弱。
それで、適当にパッと開いたところ、自死について書かれてあった。
私には、このことについては今は考えたくない、という気持ちがあったので、せっかく本を送ってくださったのに何日も読まずに放置していた。
後日、本の奥付の辺りを何気なく見ていて驚いた。
ご住職は、東大の印度哲学科を卒業され、その後、同大大学院の印度学仏教学専攻の博士課程まで修了されていた。
複数の大学の非常勤講師もされており、いくつかの書籍も出版しているらしい。
私の周りで、そのような経歴を持ったお坊さんは、他に聞いたことがなかった。
少し脱線しますが、昔、人事異動で職場に入社2~3年の人が転勤して来ることが分かった時、その人のことは知っていたので、つい、『ああ、東大法学部出身のお兄ちゃんだね』と言ったところ、周囲から『なぜ東大だからといって称賛するのか?』と言われたことがある。
私は別に東大出身者を称賛する気は毛頭なく、客観的な事実を言ったつもりだった。
実際、余りdisりたくはないが、東大の名誉教授とか、東大出身の教授・弁護士・官僚・国会議員などで、おかしなことを言う人が最近目立っているな、と思っている。
ただ、東大に合格するには知識が豊富なだけではなく、出題者が求めている正解を短時間に導き出す訓練-所謂受験勉強を、一生懸命しなければ難しいだろうと考えているので、私と違って一番遊びたい高校生の時期にそういう努力をした点については、それなりに敬意を抱いている。
案の定、文章が少し長くなってしまっていますが、話を戻します。
以前の記事で書いたことがありますが、ご住職と雑談していると、キリスト教等の他の宗教や思想にもお詳しいことが分かった。
プラトンやカントの話などもさらっと出て来る。
それまでの雑談で、ご住職が聡明で博識なことは分かっていましたが、『このお坊さんは一体何者なんだ?』といつも思っていた。
数年前のお盆の時、『この度、南直哉さんとシンポジウムで対談することになりましたが、南直哉さんのことは余り知らないので、これから南さんの本を読んで勉強します』と、ご住職が言っておられた。
それを私は真に受けて、『南直哉さんは実存と言う言葉をよく口にされ、形而上学的な話が多いので気を付けてくださいね』などと要らぬことを言ってしまった。
哲学者に偉そうにそんなことを言ってしまい、今となってはとても恥ずかしい思いがしている。
本来の意味とは違うことは承知した上で言うと、囲碁の世界でいう「耳赤の一手」を打たれたことを連想した。
この本は講演の記録なので言葉自体はそんなに難しくないのですが、内容とか論理展開はかなり難解だと感じた。
こういう場合、私は取り敢えず余り考えずにサーっと読み流すことにしている。
そして、暫くの時間を置いて再読する予定です。
その方が、余り読解力のない私には有効だと思うからです。
後で読み直してみても、どこに書いてあったか探せないのですが、印象に残ったところを書いてみます。
・多分、南直哉さんが仰っていたと思いますが、『善悪は相対的なものである』という言葉があった。
私は、『善悪は誰が決めるのか。
神や仏が決めるのか、社会が決めるのか、個人が決めるのか、時代が変わっても普遍的なものなのか』
といったモヤモヤとした想いを若い頃から抱いています。
C.G.ユングは、『私たちは悪を排除し、良い部分だけを取り出したいという思いがあるが、物体に光を当てた時と同じように、光っている部分だけを切り取って取り出しても、必ず影の部分が生じてしまい、それはできないのですよ。
だから、対立する光と影が共存する状態を考えなくてはいけません』というようなことを言っていたと思う。
気になるので、後でまたこの講演録を読んでみようと思う。
・ご住職が講師をしている大学で学生にアンケート調査を行った話があった。
『今まで、どのような人に惹かれましたか?』
選択肢:善人、まあまあ善人、普通、ちょい悪、悪人
一昨年まで、「まあまあの善人」に次いで「ちょい悪」と「普通」が拮抗していたが、昨年の調査では「ちょい悪」の人気が下から2番目になったそうだ。
その辺りの解析はまだ行っていないとのことであったが、私的にはそこには大した関心がなく、このアンケートが良いと思ったのは、その理由を書かせていることだ。
私も、「ちょい悪」に惹かれるのは何となく分かる気がするが、上手く言葉では理解できなかった。
その「ちょい悪」に惹かれる理由に興味を持った。
・主体性がある
・自由である
・他人を理解できる
・分け隔てをしない
『成程な』と言う気がする。
まぁ、そんな感じでまた再読しようと思っています。
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