2017年01月20日

人の寿命

実は、10〜20年くらい前に人の寿命について考えていたことがあるのですが、内容が内容であるために、不謹慎と思われると思い、また、誤解を招きやすく、自分自身で確信を持った考えと言う訳ではないので、今まで余り他人に話したことはありませんでした。
その後、考えを進展させたこともなく、根拠も乏しいので抵抗がありますが、備忘録として一度は書いておきたいと考えていたので、書いてみます。


私は人の寿命は120歳だと思っています。
だから、たまに「世界最高齢 124歳」などというニュースが報じられても、私は信用していません。
私が人の命が120歳だという根拠は、
@キリスト教の旧約聖書の「創世記」にそのように記されていること。
A我が国で、還暦、喜寿、傘寿などの言い方がありますが、120歳の「大還暦」以降は、そのような言い方がない(私は聞いたことがない)ということです。
ただし、聞いたことはないが、250歳の「天寿」はあるらしい。

その辺りのことを述べる前に、「人は何故死ぬのか」ということを、自分の乏しい知見で書いてみます。
人が歳をとって死ぬのは、
(1)言わば機械が老朽化するように摩耗して、生物学的な機能が衰え、生命が維持できなくなる。
(2)DNA→RNA→DNAの複写、転写が遺伝子の紐がだんだん短くなって、うまく細胞の分裂・再生ができなくなる。
(3)DNAは、そもそもその生命体が長く存在することは考えておらず、DNA自らが進化・発展して生き永らえることを目的としている(遺伝子乗り換え論を採る人々の内の一部)。
などという意見が思い付きます。

ただ、ここに挙げたDNAの話は、私の数十年前の知識を基にしているので、現在の正しい知見ではないかも知れません。

別の視点から考えてみると、例えば20歳代の青年と500歳代の元気な老人が一緒に暮らす社会というものがあれば、とても暮らしにくく、生物学的に言っても、進化が止まり、種の存続の危機に陥るのではないかと思います。

また、スピリチュアリズムの人は、「寿命は魂の問題に関わる」と言われるかも知れませんが、今はそのことには触れません。


「人が年老いて死ぬ」ということは、科学的には証明できないと思います。
自分の周りや過去の歴史上、「今までみんな死んでいる」「死ななかった人はいない」という経験的な事実がその根拠になっていると思います。


さて、@の聖書の話ですが、余計なお世話ですが、少し脱線して偉そうに言いますと、初めて聖書を読むときには、「新共同訳」の聖書を使うのが原理主義に陥らず、無難だと思います。
晴佐久神父によると、『ピーとカーが話し合いながら聖書を訳した』ということなので、公平性があると思います。
ちなみに、ピーはプロテスタントで、カーはカトリックです。

阿刀田高さんが、『旧約聖書を知っていますか』という本を出版していますが、その中に「アイヤヨ」という話が出てきます。
何のことかというと、キリスト教による人類の系譜を示していて、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネということらしいです(c.f.マタイによる福音書など)。

また話が飛びますが、聖書には同じ名前が沢山出てきて混乱します。
そこで、その人の出身地を頭に付けて呼ぶことが多くあります。
例えば、「聖母マリア」は有名ですが、その他にイエスや聖母マリアと行動を共にしていた、「マグダラのマリア」がいて、高齢の別のマリアが身籠った時に祝福したりしています。

私の友人のヒツジさんは、以前、ウイリアム王子の第一王子の命名に際して、『次は、順番から言ってジョージかな』と言っていましたが、私は何でそんなことが分かるのか不思議でした。
今度彼に会ったら訊いてみます。

ところで、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨハネは、700年〜900年くらい生きたらしい。
創世記によると、
「主は言われた。
『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。』
こうして、人の一生は120年となった(創世記、6−3)」。


これが私の1つの根拠です。
その後、確か、モーセは120歳、神に虐められたヨブは130歳まで生きたらしい。
旧約の時代に120歳という寿命はとてつもなく大きい。
平均寿命という言葉があるが、当時は出産、疫病、感染症、飢餓さらにヘロデ王による『1歳(2歳?)未満の男の子は全て殺せ』という命令が出たりするのだから、平均寿命は40歳も行かなかったんじゃないかと思う。

20〜30歳の人にとって平均余命は、恐らくせいぜい30年くらいではなかったかと思う。
60歳ともなれば、多分ヨボヨボのお年寄りだ。
私が子供の頃、少年漫画の「少年サンデー」だったと思うが、読者投書の笑い話で次のようなものがあった。

婆さんが歩いていると、乱暴な運転をする車があって、婆さんは若い運転手に文句を言った。
婆さん:『危ないじゃないか、下手糞。どこ見て運転してんだよ!』
運転手:『何だと、俺は10年運転してるんだぞ!』
婆さん:『わたしゃ、60年歩いてんだよ!』

笑い話としてはあまり面白くもないが、確かに当時60歳と言えば、老人だったと思う。
現在では、80歳を超えた人が、自転車、バイク、車を運転し、飲み屋に行く人がおり、元気なものだと思う。

Aの話は、論語から40歳「不惑」が来ているとか、草書体から、77歳「喜寿」、漢字の構成から80歳「傘寿」、99歳「白寿」などがありますが、120歳の「大還暦」、60歳(満年齢)の「還暦」以外は余り当てにならないという感じです。

また、大還暦で一応終わっているのは、そこが寿命というよりも、それ以上生きた人がいなかったので、そこで止めたんじゃないかと思ってしまいます。
根拠というには乏しいですが、洋の東西で120という数字が出てくるのは、不思議な気がします。

[おまけのクイズ]
これまた面白くもない話ですが、思いついたので掲載してみます。
記号論理学の話だったような気がします。

【ある地域に「正直村」と「嘘つき村」があって、それぞれ人々が住んでいた。
人に尋ねられたら、「正直村」の村人は、いつも本当のことしか言わないし、「嘘つき村」の村人は嘘しか言わない。
外部から正直村に行きたい人があって、2つの村に至る別れ道で、どちらの村人か分からない村人に遭ったのだが、どの様に尋ねれば、どちらが正直村に行く道か分かるか?】
2015年11月20日

私の手になりなさい

先日来、体調を崩してしまい、ただでさえ遅れがちな更新がさらに遅れて申し訳ありません。ニュースやブログ、HPとも暫く接していませんでした。

前に「Let It Beへの思い」で少し触れた『祈りの園』のHPへ行ってみたところ、いつもの「ペトロ神父の日替わりの話」に行く前の頁が、ちょっと絵的によくない(イエスの磔刑の描写で少し気持ち悪い)のと、「天国」の言葉が出て来て、「どうかなぁ」と思いました。

というのは、私は「天国」や「地獄」を信じていないからです。簡単には説明できないんですが、誤解を恐れずに言うと、「あの世」「霊界」「魂」「神の摂理・法則」「輪廻転生」というものは信じていますが(「輪廻転生」は殆ど嫌々信じてます)、「神の玉座」、「天国」や「地獄」などは信じていないのです。

別に「自分がどの宗教を信じているから」ということではなく、自分の体験や感覚的なものなので、この点は上手く説明できません。

晴佐久神父の無料動画によると、ローマ教会(バチカンにあるローマ法皇のいる教会。何と呼ぶのがいいのか、よく分かりません。)で天国に行ったと確認されているのは何人かいるが、地獄へ堕ちたとされる人はいないそうです。
晴佐久神父(はれさくしんぷ)の話と英神父(はなふさしんぷ)の話は、ユーモア溢れるものが多いので、関心のある方は無料動画を見られたらいいと思います。

また、仏教でも「天国」や「地獄」が出てきますね。この場合、「天国」は「涅槃」とか「極楽浄土」と呼ばれています。厳しい修行を続けなければ涅槃には行けない、とするものから、念仏さえ唱えれば涅槃に行くことができる、というものまで様々なようです。

そして最近の日本では、宗教家のみならず、単なる占い師までが、「これをしないと、あるいはこれを購入しないと地獄へ堕ちる」などと言って人の弱みに付け込んで、あくどい商売を今でも続けていると思います。


多くの日本人が恐らく、因果応報の考えを持っていると思います。それは良いことをすれば将来自分に良い結果が得られ、悪いことをすれば、将来災いを受けるということです。将来というのは、生前の場合もあるし「あの世」で償われるということもあるのでしょう。

「情けは人の為ならず」という言葉もあります。これは本来「人に親切にすることは、巡り巡って自分のためになる」という意味です(誤用が時々あるようなので)。
私は因果律については信じておりますが、「良いことすれば云々、悪いことをすれば云々」という考えには若い時から抵抗感をもっています。
人間と同じ価値観で判断しているのであれば、神とは言えないのではないかと思うからです。私は神や仏は当然人間を超えた存在と考えているので、そこでの「良い、悪い」という判断は、人間のものとは異なる筈です。

イエスは「健康な人に医者はいらない、私は罪人のために来た」と言ったと思います。そして、良い種を蒔いた人は良い果実をを得るから、それを倉庫に保管しなさい、悪い種を蒔いた人はその果実を刈り取って火にくべなさい、と言ったと思います(記憶曖昧)。
ただ、2人と言いましたが、実は同じ人だった思います。


私は貧乏なので、最近、本は殆ど買わずに図書館で借りて読んでいます。思い切って買う時でもアマゾンで古書扱いになってから古い本を買います。何年か前に五木寛之の「親鸞(上・下)」を買って読み、一部不快な表現もありましたが好感が持てました。
その小説を基に少し調べてみたところ、鎌倉時代にいろいろな宗派ができましたが、それぞれの宗祖と言われる人も殆ど延暦寺などのお寺で、一緒に修行に励んだようですね。

個人的な話で恐縮ですが、私の家は「浄土真宗本願寺派」です。恥ずかしながら父親が亡くなってからそのことを知り、葬式の準備が大変でした。前の記事で少し書いたように、お盆にご住職がお経を上げに来てくれる度に、一段落してお茶を飲んでもらう時に、私が無知から来る質問をするのですが、真面目にちゃんと答えてくださるので、有り難いと思っています。

以下、その質問の答えや自分で気付いたものなどを簡単に無茶苦茶な順番ですが書いてみます。

(1) 日本で一番信者が多いのは、浄土真宗などではなく、「創価学会」。創価学会は日蓮宗(あるいは日蓮正宗、日蓮上宗)から破門されたらしい。

(2) 浄土真宗東本願寺派と大谷派とお東さんが同一かというと、微妙でいろんな分派があるらしい。

(3) 「南無阿弥陀仏」は、東本願寺派では「なむあみだぶつ」と唱えるが、西本願寺派では「なもあみだぶつ」と唱える。

(4) 西本願寺派では、仏壇の絵像?に金色の放射状の線が描かれている。

(5) 東京で5,000人を超える参列者があるような葬式を行える場所は、青山葬儀所か築地本願寺しかなく、築地本願寺は浄土真宗だが、大抵の宗派の葬式は受け入れている。ZARDの葬儀もいずれかだったと記憶している。


実は、上記の話は途中から横道に入っており、本当は「脱線」という言葉を使おうかと思ったんですが、私の話はしょっちゅう「脱線」するので、私のブログを時々訪問してくださる恐らく2〜3名の方の中に、鉄道関係者の方がいたら不愉快だろうな、と思ってできるだけ使わないようにしました。首都圏のJRで、一時期不審な火災なども頻発したこともあります。
ただ、そんなことを気にしていたら、何も書けないということは分っているので、また復活させます。実際脱線事故は、殆ど起こっていないことも知っています。

本当は今日は『祈りの園』のHPのまた昔の曖昧な記憶の話をしたかったんです。
実話かどうかは確認できません。
概要は、次のとおりです。


ヨーロッパかその周辺の地域での戦争で、一個中隊というのかどうか分からないが、ある程度の規模の軍隊が行軍していた。途中の都市の市街地のほぼ中心部で、「休憩」となった。そこにはイエスの銅像があったが、ミロのビーナスのように、無残に両方の手が失われていた。
ある程度の時間が経過して、「よし、出発」との命令が下された。
その時、一人の兵士が銅像に走り寄って紙を貼ってから出発した。
その紙には「あなたが私の手になりなさい」と書かれてあった。

私はこの話にかなり痺れました。
しかし、以前の「今の日本人とキリスト教」の話のときと異なり、普通の日本人は無関心かもしれないと思っています。

日本の仏教・神道でも様々な奉仕活動やお勤めを行ったり勧めたりしていますが、例えば、阿弥陀如来や何とかの神について、「手になりなさい」という言い方はちょっと聞いたことがありません。

仏教では、志願者の中から見込みのある者だけを出家させて修行させたが、キリスト教では、イエスの方から取税人のマタイ、漁師のシモン兄弟などに、「あなたは今日から人間を獲る人になりなさい」という意味のことを言って一緒に連れて行ったということと関係しているのでしょうか。

私的には最初の方に書いた「神の摂理」に、利他愛、奉仕の心、善・正義の実現などが入っていると思っているので、神の手足となって行動するのは当然と思っているので違和感はありません。
2015年11月19日

今の日本人とキリスト教

前回同じタイトルでUPしたのですが、余りにも誤字・脱字などが多かったので、再UPします。大変失礼しました。他の記事を修正したことで、順序が変わってしまい申し訳ありませんでした。


良いタイトルが思いつかなかったので、大げさなものになってしまいましたが、評論文を書くつもりも、その能力も私にはありません。単純に、「日本のクリスチャンは1%もいない」とよく言われますが、何故こんなに少ないのか?といつも思っていましたので、私なりに考えたことを書いてみました。
歴史的・地政学的なことや、我が国には元々仏教や神道が根付いていた、などということは考慮していません。単純に、一般の人がキリスト教に感覚的に馴染みが薄いのは何故か?という話です。

私はキリスト教に関心を持っていますが、洗礼は受けておりません。一度だけ、かなり前ですが、友人のカトリック信者に勧められて日曜日に教会のミサに行ったことがあります。たしかミサ終了後に、皆んな並んで順番に神父さんのところに行くのですが、(その前に?)渡されたコインのようなもの?を持ち帰ってしまい、後で友人に笑われたことがあります。いまだにその意味が分かりません。

普段の私は、恐らく大方の日本人と同じで、お正月には、気が向けば近くの神社に初詣に行き、お盆には、家にご住職がお経を上げに来てくださり、年に何回か墓掃除を兼ねて墓参りに行く、といった感じです。

さて、1%の話ですが、どういう数え方をしたのか、また、どの辺りの信者まで含めているのか(怪しい教団がありますので)という疑問はありますが、日本にクリスチャンが少ないのは確かでしょう。
日本人にキリスト教が受け入れられない理由として、思いついたこと、というか私が感じていることを簡単に書いてみます。

(1)人は生まれながらに罪を負っていると語ること。
   アダムとイブの話から来ているのでしょうが、日本人には受け入れ難いでしょうね。赤ん坊にも罪があると考える日本人はいないでしょう。
(2)旧約の神が、やたらに生贄を求めているように見えること。
   日本人は無益な殺生を嫌い、実験に使った小動物に対しても、慰霊塔のようなものを作りますね。
(3)同じく全知全能の筈の神が、簡単にサタンに唆されてヨブを痛めつけた(過酷な試練を与えた)こと。
   そうですよね。ヨブの神への信仰を試すということと、神が全知全能ということは、相容れませんよね。また、ヨブの抗議に対して神が「お前は雪を作るところを見たことがあるか」とか「雷ができるところが云々」などと言って、神が自然現象を司っていることを誇示しているような描写があったと思いますが、ここはどうも神の方が分が悪いと思います。
なお、この話については、私はC.G.ユングの『ヨブへの答え』がかなり気に入っています。
(4)汝の敵を愛せよと語ること。
   私の読み方が浅いのかもしれませんが、自分の愛する人が殺されて敵を愛せる人はいませんよね。また、イエスが敵であるサタンを愛した筈はないですよね。聖書の前後の文脈を確認せずに、勝手なことを言ってすいませんが、ここは聖書の中でも、核心的な部分ですね。
(5)右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、という言葉。
   この言葉も有名ですね。相手を赦しなさいということなんでしょうか。そんなことで私の信念は変わらないということでしょうか。私の知人で、「ここがキリスト教の一番嫌いなところだ」とはっきり言った人がいます。
(6)キリスト教徒は、十字軍の頃からか、現在でもやたらに戦争や紛争をしていますが、これはイエスの教えに反するものだというもの。
そういえば、ヒトラーもカトリック信者らしいですね。愛を強調するキリスト教なのに、イエスの死後、戦争や紛争が絶えることなく、教会の間でも諍いがありましたね。ただ、これはイエスの責任ではないと思います。

大体以上が主な理由ではないかと思います。

あと、ブドウ園の話とか、主人からかなりの期間預かっておいたお金を、土の中に埋めて減らないように保管していた下男が叱られ、商売か何かをしてお金を増やした下男が褒められる、などという、いろいろ議論がある話があり、違和感を持つ人も多いでしょうが、そもそもキリスト教に関心のない人はこんな話は知らないでしょうから、ここでは触れません。

蛇足ですが、聖書に接して(といってもかなり前に一度飛ばし読みをしただけですが)、私にとっては良かったと思われることがあります(大したメリットではないですが)。文章が下手なので、また箇条書きにします。

{1}欧米人の書物を読む時、宗教・思想の書物でなくても、やはり根っこにキリスト教の思想があるのだなぁ、と思われることがあって、少し理解が進みます(もちろん和訳の本です)。まったく異なるジャンルでも、直接、聖書の言葉やイエスに言及しているものも多いです。映画などでも、特に旧約のものは、題材になることがありますね。
{2}以前に流行った「目からウロコ」という言葉があります。これは、新約の「使徒言行録 サウル(後のパウロ)の回心」のところに書かれていますが、このことを知って使っていると思われる人は殆んどいない思います。知って使っていると思われる人は、この人はクリスチャンかな?、少なくても聖書かその関連の書籍を読んだことがあるんだろうな、とその人の人柄の一端が窺えるような気がします。
{3}昨年、フランシスコ ローマ法王が韓国を訪問しましたが、「韓国人は霊的に生まれ変われ」というようなことを言われました。これは恐らく新約の「ニコデモ」の話(ヨハネによる福音書3章1〜)を踏まえてのことだろうなぁと思います。
   
ちなみに、世界の多くの国では、ローマ法王、イギリス女王、そして天皇陛下が最も丁重にもてなされる対象であって、各国を訪問する際には、その国の国家元首が出迎える慣習があるようです。ローマ法王の訪米でも、オバマ大統領夫妻が滑走路まで法王を出迎えたそうですね。日本のマスコミは、「異例の出迎え」と報道しましたが(すべてのマスコミが報道したのかどうかは知りませんが)、私にはそれほど異例なこととも思えません。
最近は長らく競馬をしていませんが、少し前の天皇賞の時、優勝した騎手のデムーロ(スペインではなくイタリアでした)が、御観覧に来られていた両陛下に向かって片膝をついて敬意を示しました。さすがだなぁと、そういうマナーを身につけていることに感心しました。
 

駄文で失礼しました。

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