,

2017年04月06日

創世記の天地創造の7日間

クリスチャンでもない私が、聖書のことを語るのもどうかとも思いますが、昔の想い出ということで少し書いてみます。
内容に間違いがあったら、申し訳ありません。

今は昔、かなり若い頃、友人が創世記の記述について、得意そうに質問してきたことがある。
キリスト教の聖書の最初の、創世記のまた最初の「天地創造」の箇所で、『7日目以外で神が「良し」とされなかった日は、何日目か知っているか?』という内容であった。

その当時、私は聖書を持っていなかったが、文庫本の「創世記」を読んだことはあった。
そんな箇所は思い浮かばず、降参した。
「良し」としなかった理由を尋ねても、彼は『知らない』と言い、どこかで偶々聞いた話なのかと思った。

家に帰って文庫本をよく見てみると、本文に注釈が付いていて、巻末に『原文には記述がないが、意訳して「良しとした」を挿入した』と書いてあった。
『それはないだろう』と思ったので覚えている。


超簡単に神の7日間を勝手にメモしてみた。

1日目 光あれ。
2日目 大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けた。
3日目 海と陸を造り、植物を造った。
4日目 太陽と月と星を造った。
5日目 海の生物と鳥を造った。
6日目 陸の生物を造った。御自分にかたどって、人を造った。すべて生き物を人に支配させた。
7日目 安息日。

天地創造の神の7日間の話は、見たり聞いたりしてご存知の方が多いと思いますが、彼の質問の答えが分かりますか?

正解は2日目です。

何故そうなのかということについては、いろんな議論があると思いますが、深入りする気はありません。
ただ、私は天と地を分けるようなイメージを連想して、神様も少しためらったのかな、などとぼんやりと思うだけです。。。。


私が気になるのは、人を造った6日目で、メモには掲げませんでしたが、6日目の全体は次のようになっています。
神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
神は彼らを祝福して言われた。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
そのようになった。 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 (日本聖書協会『聖書 新共同訳』創世記)

先日の記事で、もっと肉を食べようと言ったばかりなのに・・・。

ここがベジタリアンの根拠なのかなとも思いますが、そんなことよりも、何で人は食事を摂らなければならないようになっているのかと不満?に思うことがある(語彙が貧弱で良い言葉が思う付かない)。

時々、仙人や攻撃型ナメック星人のピッコロ(知ってますか?)のように食事を摂らずに済めばいいのに、と思うことがある。
グルメが楽しみな人には、分からない感覚かも知れない。

うまく言えませんが、煩わしい世の中からの現実逃避のようなものだと思う。
小椋 佳に「飛べない蝙蝠」という曲がありますが、自分ではあんな感じに近いのではないかと思う。

会社の人間だったら、『そんなことを考えている人間は、課題の処理能力に問題があって使えない』と言われて攻撃を受けるかも知れませんが、その時には、『小椋 佳さんは立派に銀行員の仕事をされていましたよね』と反論できると思う(半分冗談です)。

「もし、人が食事を摂らずに済むとしたら、どうなるか?」と乏しい想像力で考えてみましたが、後で読むと自分でも嫌になると思うので、文字にするのはやめました。
「人類は進歩せず、既に滅亡しているのではないか?」という気がします。

『そんな無駄なことは考えず、今、そしてこれから、自分には何ができるかとを考えて一生懸命に努力することが大切だ』というのが、模範解答になるのでしょうか。


話を戻して、再び6日目の記述についてです。
『神は彼らを祝福して言われた。・・・・』とありますが、これは見方を変えると「神は人に過酷な試練を与えるように決めたのではないか」とも思います。

「創世記」から少し離れて、人類誕生の頃のことを想像してみる。
食糧を確保し、猛獣や天変地異から自分や家族を守るのはとても大変だったことは想像に難くない。
仲間と力を合わせて立ち向かうしかないが、仲間内でも、乏しい食糧の分配、意見の不一致、感情のもつれなどによって争いが多々生じたと思う。

これが私が、「神は人に過酷な試練を与えるように決めたのではないか」と思った所以です。
『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』と言われても、気候変動による不作や他の動物との争いもあって、簡単には獲得できない。


キリスト教の本質は、『愛を学び、愛を実践することである』と言ってしまっても、そんなに間違っていないと思う。

「創世記」は、イエス・キリストが誕生する少なくても300年以上前に成立しており、さらにその中の「天地創造」は、それ以前の神話の世界の話と考えられるので真に受ける必要もないかと思いますが、そのような思想が古代からあって、現代まで連綿と伝えられているのでしょう。

神が与えた試練と考えることに意味があるとするならば、その目的は何か?という話になりますが、もちろんそれは分かりません。
『私たちは魂の修行のためにこの世に来ているんだ』と言う人がいますが、私も子どもの頃から頭の片隅にそれと似たような思いがありました。

親にそんなことを言われたことはありませんが、小学校の先生の中に『善いことを1つすれば、神様への階段を1つ上ることになる』とか、『誰も見ていないと思っても、神様はいつもあなたのことを見ている』とかよく言っている先生がいました。

良い意味に取ればいいのですが、後から考えてみると、『お前ら、悪いことをしたら許さんぞ』と半ば脅しだったような気もします。

私は「前世療法」「臨死体験」「シルバーバーチの霊訓」などの書に関心があって、一時期結構読んでいました。
いずれも宗教書ではなく、欧米のキリスト教圏の翻訳書が多いのですが、意外にも「因果律」「魂とあの世」「輪廻」などという言葉がほぼ共通して出てきます。

修行という言葉はなかったかと思いますが、「魂の霊性の向上」ということに言及しているものは、いくつかありました。
『因果律とその他のものを一緒にするな』という声が、下北半島の方向から聞こえるような気がします。

悲しいことに、有史以来、人間は戦争や紛争を繰り返しており、数千万人の罪のない人々が亡くなっています。
全然関係なく、内容や場面は忘れてしまいましたが、アンリ・バルビュスが『地獄』の中で、『神はどこにいるのだ』と言っていたことを想い出します。

もし、『何故戦争を許すのか?』と人間が神に抗議したら、神は何と答えるだろうかと思ったことがある。
多分、
『あなた方は、私のロボットではない。
あなた方は善いこともできるが、悪いこともできる。
他人の命を奪うこともできるし、食事に困っている人に一度の食事を提供することもできる。
あなた方の間で起こした問題は、あなた方で解決しなさい』
と言われるのではないかと近頃では思っている。

話が発散しないように気をつけていたのですが、結局、訳の分からない内容になってしまいました。

アダム4.jpg
ラベル:小椋佳 聖書
posted by いわし雲 at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 宗教・思想 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック