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2017年01月15日

相変わらず実存は分かりませんが

相変わらず、私には実存というものがよく分からないので、南直哉さんのブログの話も理解できないところが多い。
それで今日は余り考えず、検証もせず(「あなたはいつもそうじゃないか」と言われるかも知れませんが)、私の中にある素朴な疑問を書いてみます。

「実存主義」は19~20世紀頃、キルケゴール、サルトル、ニーチェなどによる思想で、その後、日本語で「実存」という言葉を当てたのだと思います。

一方、仏教発祥は紀元前2~3世紀で、インドから中国を経て日本に伝来したのは、6世紀のことだと思います。
私が学生の頃は「仏教が来てご参拝」と西暦538年と語呂合わせで覚えていましたが、今では諸説があって数十年の違いがあるようです。

疑問は、「悟り」「解脱」「無常」「無我」などの仏教から派生したと思われる言葉がありますが、当時はなかった「実存」が何故、今出てくるのかということです。
現代人には「実存」という説明の方が分かりやすいということなのでしょうか。
鎌倉期以降に、「実存」に近い意味の日本語が現れていて然るべきではないのか、という話です。

そんなことを思いながら、以前に私の記事で言及した「Webでも考える人」の「アニミズムと仏教伝来」を開いてみると、私がこの連載について勘違いしていたことが分かった。
「アニミズムと仏教伝来」という連載でなく、「超越と実存」の連載だった。

『本論考は、この「実存」と「超越」の思想的関係を、ゴータマ・ブッダから道元禅師まで追跡しようというものである』と南直哉さんが「アニミズムと仏教伝来」の初めの方に書いておられました。
超越と実存」の連載記事の始まりが「アニミズムと仏教伝来」であり、その後も連載が続いていることを知りませんでした。
まさに、「木を見て森を見ず」でした。
私が以前に記事に書いた時には、まだ、この「超越と実存」の連載の全体が表示されていなかったので、勘違いしたのだと思います。

うまく説明できず恐縮ですが、もし、私と同じようにこの「超越と実存」の連載の構造がよく分かっていない方がおられたら、上記の「超越と実存」の緑色のリンクを参照してみてください。
全体の構造が理解できると思います。
このウェブサイトのpvが増えた頃に、書籍として出版されるのかな、と思います。

この中で、私が惹かれる「法然」「親鸞」についての言及が次のとおりあった。

『法然の革命(5)』
『法然における「絶対」(6)』
『仏教を突破する親鸞(7)』

全てを読んで理解した上で何か書ければいいのだけれど(『白い一日』風。小椋佳 、井上陽水。)、理解が及ばないので残念ながらそういう訳にはいかず、述べられている内容で、いくつか気になった点だけを書いてみます。

一つ目は、『法然の革命(5)』の中で、
「『古事記』的アニミズムを底流としつつ、まさに「ありのまま」主義的形而上学たる「天台本覚思想」が形成過程にあった思想状況において、彼はいきなりキリスト教のごとき「一神教」のパラダイムを導入したのである。これほど妥協なき超越性を主張する思想は、彼以前の日本には一つもなかった。」
と記されている点です。

『キリスト教のごとき「一神教」のパラダイム』という考えは、斬新で少し「どきっ」とした。
確かに、「仏教」という枠組みを取り払ってしまえば、「阿弥陀如来」を一神教の神として成り立ちそうです。


二つ目は、『法然における「絶対」(6)』の中で、
『法然の思想では、念仏しさえすれば「誰でも」成仏し、救済されるということになる。すると、死後に漏れなく来世で絶対的に救済されるなら、生前現世では「ありのまま」でよいではないか、という発想が現れてくることが予想される。』
と記されている点です。

ここは異議ありです。
蓮如上人が「御文章」の中で、
『ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり。』と言っており、
これは親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えているということなので、整合が取れないのではないかと思います。

このことについての言及がないのは、残念です。


三つ目は、『仏教を突破する親鸞(7)』の中で、
『本論考で私は、法然に帰依する以前の親鸞に触れず、彼に対する法然の影響に関説しない。注目するのは法然との連続ではなくて非連続である。私は、この非連続はあくまで非連続なのであって、巷間言われているように親鸞は法然の思想を「発展」させたわけでも「深化」させたわけでもない、と考える。二人は問題設定とパースペクティブが異なるのだ。』
と記されている点です。
 
私は普通に『親鸞は法然の思想を「発展」させた』と思っていたので、これは意外だった。
親鸞の言葉として、『法然となら地獄までも付いて行きたい』『法然の言うことが嘘空言でも、後悔しない』ということを私は自己流に断片的に覚えていましたが、「非連続」という考えは思い浮かばなかった。。。

その後に出てくる「『歎異抄』の言葉」の小見出し以下の部分は、私が親愛する親鸞聖人を誹謗しているように聞こえ、実は心中穏やかでない。

『「信じるとは何か」と問う人間が、同時に「信じる」ことは不可能である。』という内容については、私は必ずしも納得できず、その後の論理の展開についても、少し乱暴で、正しいとは確信できない。
「不可能である」というのは、経験的にそれこそ、そのように「信じている」からではないのでしょうか。

「信じる」という言葉の定義にもよるが、「一度信じたら、未来永劫修正されることはない」というのであれば、逆にちょっと危ないような気もする。

あとは時間の概念で、昨日の私と今日の私が同じ存在であり、昨日と同じことを信じているというのは、記憶でしかないのと思う。
それが当たり前のことかどうかは分からない。


私にもう少し知識と理解力があれば、正面から反論したり、あるいは逆に、同意して話を拡げることができるかも知れませんが、現時点では残念ながらそのようなことはできません。
またまた中途半端な内容になってしまい、最初の疑問についても掘り下げることはできませんでしたが、この辺りで終わります。


[前回のクイズの答え]:『いつもと同じ』でした。
posted by いわし雲 at 18:15 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする
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