2016年10月25日

南直哉さんの話と若住職さんの話

先日来、ブログ画面のデザインを直そうとしていろいろやっていますが、右サイドバーの行がズレているし、プロフィールの画像も小さくならないし、なかなか思うとおりにならない。
ただ、「カテゴリ」の使い方が分かったので、過去記事を整理したところ、自分でも探しやすくなった。

この中に「南直哉さん」を入れたのは、引き続き関連した記事を書こうと思ったためですが、なかなか書くことができません。

最初の記事で書いた頃から南直哉さんのブログ「恐山あれこれ日記」を「はてB」で追いかけていますが、正直、難しくて理解できないことが多い。
大体、10の日に更新されているようです。

「実存」という言葉を165km/hのストレートで連続して投げ込まれているような感じで手も足も出ませんが、「実存」という言い方にはこちらも慣れてきました。
しかし、私には「実存」という考え方が分からず、まだ受け容れていないので、そこから先の理解ができない状況です。

なお、私が「分からない」「理解できない」などと書いているのは、論理的にこの結論しかないというところに至らないということではなく、ずっと緩く、感覚的に「何となく納得できる気がする」という程度にまで至っていないという意味です。

今年の5月30日の南直哉さんのブログで、 
『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う』といきなり書かれており、少しショックを受けたが、後でよく読んでみると『多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた』と書かれていた。

どこかで『業を返すために輪廻がある』と聞いたことがあるので、以前私は何となく『そうなのかな』と考えたことがあるが、やはりそのように語られてきたんだと少し安心した。
それに、『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だ』と言っておられますが、「輪廻」が「ある」とか「ない」とは言っておられない。

最近の南直哉さんのブログを読むと、多分、南直哉さんの境地に至っては、輪廻があるとかないとか、あるいは、自己と他者という概念そのものが「どうでもいいこと」と思っておられるのではないか、と愚考しております。

凡人たる私の周りで、「仏教と実存」などと言っている人はいないので、実態はどうなのかと思い「曹洞宗 実存」「仏教 実存」で検索してみると、山ほど出てきた。
「実存」が仏教の主流というか本質的な考え方なのかな、とも思ってしまうがよく分からない。

「Webでも考える人」で南直哉さんの「アニミズムと仏教伝来」という興味深い連載も見つかった。

時間的に前後しますが、この「仏教と実存」などについて、今年もお盆にお経を上げに来てくださる若住職さんに尋ねてみようと思った。
といっても、真正面から「〇〇とはなんぞや」などと訊くのではなく、市井のお坊さんの一人としてどのように感じられているか尋ねてみたいと思っただけです。

「私の手になりなさい」で書いたように、今のお寺とは私の父親が亡くなってからのお付き合いで、お盆以外に特に交流がある訳ではありません。
お盆に来てくださるのは、最近はずっと若住職さんで、40歳代の聡明な方です。
他宗派やキリスト教などにも造詣が深い。

正式なご住職は若住職のお父さんで、10年ほど前に地盤のせいかお墓が傾いてしまったため、補修工事の相談をしたことがあります。
知人から「入魂・脱魂式」をしなければならないと聞いていましたが、愚かな私は、ご住職にそのまま『お墓の補修をするので、「入魂・脱魂」をして欲しい』と言ってしまいました。

暫しの沈黙の後、ご住職は怒るでもなく『私にそのような力はありませんが、お墓の補修をされるというのであれば、お墓に行って読経しましょう。工事の間、ご遺骨は当寺でお預かりしましょう』と言ってくださった。
何かとても恥ずかしい思いをした。

今年のお盆の話は、現在の私の考えを整理して保存するため、引き続き書いておこうと思っていますが、別に特筆すべきことはありません。
気が向いたら、覗いてみてください。
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