2016年10月18日

性善説という言葉

ずっと以前から使われている言葉ですが、ニュース記事などで最近また「性善説」という表現が多くなったと思います。
ここで言う性善説とは、様々な制度や施策を実施するに当たって、嘘をついて申請する者はいない、というような話です。

それで、このような前提に立って制度を作って運用しているため、本来、対象とならない人が虚偽の申請を行うなどして不正に利益を得る場合があるということで、「性善説が前提となっている制度とその運用を見直して、審査や罰則を厳しくしろ」という結論に至ることが多いようです。

それはそうでしょうし、そのことを「性善説」と表現するのは分かりやすいのですが、私にはいささか抵抗があります。
というのは、ダジャレのようですが、孟子に申し訳ないという単純な気持ちからです。

紀元前3〜4世紀頃、孟子は「人の本性は善である」として「性善説」を唱え、後に荀子が「人の本性は悪である」と「性悪説」を唱えましたが、いずれも後天的な教育・徳育が必要だということは共通していると思います。

孟子は性善説を唱えましたが、「人は嘘を付かない」とは一言も言っていないので、ニュース記事などで言う「性善説」は本来の意味から外れていると思われ、私には抵抗があるのです。


初めて正式に孟子の性善説に向き合ったのは、多分、高校の漢文の授業だったと思います。
また脱線しますが、漢文の先生は生徒から見ると、長い髭を生やした小柄なお年寄りの先生で、時代や世間からはかなりズレている感じの人でした。

最初の授業で、男女がくっつけていた机を離すように言い、ただでさえ狭い教室なのに面倒なことでした。
次の授業の時に、元気のいい生徒がこのことに異議を唱えましたが、先生は怒るのでもなく、自分の考えや論理的な説明をするのでもなく、暖簾に腕押しという感じでその生徒も諦めたようでした。
「男女七歳にして席を同じゅうせず」ということなんでしょうか。

こんな感じの授業で熱心に受講している生徒は殆どいませんでしたが、別のクラスの同級生の友人が授業中に指名されて質問に答えられず、先生から
『そんなことでは、大学の入試に受からんぞ』と言われ、
『僕は北京大学には行きません』と言い返したらしい。
変わったキャラの友人だったが、そんなことを言う奴だとは思わなかった。

この先生が授業中に「性善説」「性悪説」について説明したことがあった。
この時には、珍しく生徒が真剣な面持ちで聞いていた。
『この紙に譬えると、性善説と性悪説は紙を表面から見たのと裏面から見た違いだ』というようなこと言った。
で、そこでお終い。それ以上の説明はなかった。肩透かしのようだった。

少し捻くれていた私は、
『紙が人の本性と言うなら、紙の両端を180°捩じってセロテープでくっつけたらメビウスの帯のようになって表も裏もなくなるが、どうなるのか?』
と思ったが、それ以上は考えられなかった。

印象に残っているのは、ーーー今netで検索してみると内容が記憶と少し異なっていますが、
『井戸を覗き込んでいる幼子(おさなご)がいたら、盗人といえども走り寄って幼子が井戸に落ちないように助けない者がいるだろうか』
という孟子の言葉だった。

不条理なことが多い世の中ですが、私は「人の本性は善である」と信じたい。

タグ:性善説 孟子
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