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2016年06月11日

南直哉さんの話の続き

今年3月に書いた「南直哉さんの話を聴いた」の反響が大きかったので続きを書いてみようと思った、などと言うことができれば少しは体裁が良いと思うのですが、お察しのとおり反響など全くありません。

ただ、その記事の内容と、その中で引用しているYouTubeの動画を改めて見直してみると、間違いや私の思い違いがあることと、その後に変化があったので、少し書いてみます。

まず、前回、
『話を戻して、南さんは当然後者の話をされるのかと思ったら、「私たちは気がついたらこの世にいて、勝手に名前を付けられ、共同社会の中に組み入れられている・・・」というようなことを話され、本心がどこにあるのか分かりませんが、「えっ?」と思ってしまいました。』
と書きましたが、引用しているYouTubeの動画「宮崎哲弥・南 直哉 私とは何なのか?」(全部で49分34秒) の中では、語られていないようです。

別の動画で観たのだと思いますが、見つけることはできませんでした。
ただ、南直哉さんが語られたことは確かです。

ちなみに、この動画の 35:38~ 辺りから『老師と少年』の本を出版した後、『ストレスが溜まる書物だと言われた。・・・』と南さんは語っておられます。
私も読んでみましたが、確かに理解が及ばなかったこともあって、ストレスが溜まりました。

例えば、「第七夜」の老師の言葉を引用してみると次のようになっています。

『自分が存在するのではない。存在するのだ。自分が生きているのではない。生きているのだ。問いはそこから始まる。「自分」からではない』・・・と続いていきます。

私には訳が分からない。

私はこの本を読む前から、上記で最初に引用した私の前回の記事の箇所から推察できるかもしれませんが、『ひょっとしたら南さんは「実存主義」なのかな?』と薄々思っていました。

だとすると、
『サルトルのように「人は勝手に生まれて勝手に死んでいく。そこに神の介在はない。」という考えと、「今あなたがいるのは、神様や仏様の意思であり、人はそれぞれ意味を持って生まれてきたのだ。」という考えの対立です』
と私が書いたのは間違っているのでしょう。

先入観から、私が勝手に「実存的な考え」と「宗教的な考え」は対立していると思って書いたからです。
そういう捉え方自体が間違っているようです。

キリスト教神学者の中にも「実存主義」的な人も沢山いるらしい。


大体私は、「本質」よりも優先される「実存」という考えが分かっていないし、どうも人によってそれぞれ「実存」と言っている内容の格差が大き過ぎると思っていて、余り深入りしたことはありませんが、何となく勘で「これは実存的な考えかな?」という感じはあります。

若い頃、ニーチェの「ツァラトゥストラ」に何度か挑戦しましたが、いつも最初の方の「見よ、超人が山を降りて来た」?だったかの辺りで撃沈され、3~4連敗したままです。

全然関係ないんですが、思想的な書物以外の別のジャンルの入門書的な解説書で、『・・・については、実存的に理解することが大切である』などと記述されているのを読んだことがありますが、大抵は以前から私が漠然と思っていたように、単に「あるがままに受け入れる」というような意味で解釈すれば、意味が通じるような気がしています。
大袈裟に書かなければいいのに、と思いました。
私の考えが浅いのかも知れませんが。


さて、この記事の上の方で「その後に変化があった」と書いたのは、いろいろ調べているうちに、南直哉さんが書かれているのであろうブログの【「恐山あれこれ日記」『「業」について』(2016年05月30日 | 日記)】に行き着き、その中で、「実存」という言葉が直接何度も出てきたからです。
「やはりそうだったのか」という感じです。

いきなり、『仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。』という書き出しで始まっているのも衝撃的ですが、今はそこまで考える余裕がないので、取り敢えずそこはスルーします。

南直哉さんの話は、納得できるものが多く、強く惹かれるので、今後も勝手に付いていくつもりです。


なお、「還暦ともやもや」でのクイズの答えは、コメントをいただいたとおり、日月火水木金土 → 英語表記で「W」です。
posted by いわし雲 at 20:32 Comment(0) | TrackBack(0) | 南直哉さん | 更新情報をチェックする
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