2015年11月20日

私の手になりなさい

先日来、体調を崩してしまい、ただでさえ遅れがちな更新がさらに遅れて申し訳ありません。ニュースやブログ、HPとも暫く接していませんでした。

前に「Let It Beへの思い」で少し触れた『祈りの園』のHPへ行ってみたところ、いつもの「ペトロ神父の日替わりの話」に行く前の頁が、ちょっと絵的によくない(イエスの磔刑の描写で少し気持ち悪い)のと、「天国」の言葉が出て来て、「どうかなぁ」と思いました。

というのは、私は「天国」や「地獄」を信じていないからです。簡単には説明できないんですが、誤解を恐れずに言うと、「あの世」「霊界」「魂」「神の摂理・法則」「輪廻転生」というものは信じていますが(「輪廻転生」は殆ど嫌々信じてます)、「神の玉座」、「天国」や「地獄」などは信じていないのです。

別に「自分がどの宗教を信じているから」ということではなく、自分の体験や感覚的なものなので、この点は上手く説明できません。

晴佐久神父の無料動画によると、ローマ教会(バチカンにあるローマ法皇のいる教会。何と呼ぶのがいいのか、よく分かりません。)で天国に行ったと確認されているのは何人かいるが、地獄へ堕ちたとされる人はいないそうです。
晴佐久神父(はれさくしんぷ)の話と英神父(はなふさしんぷ)の話は、ユーモア溢れるものが多いので、関心のある方は無料動画を見られたらいいと思います。

また、仏教でも「天国」や「地獄」が出てきますね。この場合、「天国」は「涅槃」とか「極楽浄土」と呼ばれています。厳しい修行を続けなければ涅槃には行けない、とするものから、念仏さえ唱えれば涅槃に行くことができる、というものまで様々なようです。

そして最近の日本では、宗教家のみならず、単なる占い師までが、「これをしないと、あるいはこれを購入しないと地獄へ堕ちる」などと言って人の弱みに付け込んで、あくどい商売を今でも続けていると思います。


多くの日本人が恐らく、因果応報の考えを持っていると思います。それは良いことをすれば将来自分に良い結果が得られ、悪いことをすれば、将来災いを受けるということです。将来というのは、生前の場合もあるし「あの世」で償われるということもあるのでしょう。

「情けは人の為ならず」という言葉もあります。これは本来「人に親切にすることは、巡り巡って自分のためになる」という意味です(誤用が時々あるようなので)。
私は因果律については信じておりますが、「良いことすれば云々、悪いことをすれば云々」という考えには若い時から抵抗感をもっています。
人間と同じ価値観で判断しているのであれば、神とは言えないのではないかと思うからです。私は神や仏は当然人間を超えた存在と考えているので、そこでの「良い、悪い」という判断は、人間のものとは異なる筈です。

イエスは「健康な人に医者はいらない、私は罪人のために来た」と言ったと思います。そして、良い種を蒔いた人は良い果実をを得るから、それを倉庫に保管しなさい、悪い種を蒔いた人はその果実を刈り取って火にくべなさい、と言ったと思います(記憶曖昧)。
ただ、2人と言いましたが、実は同じ人だった思います。


私は貧乏なので、最近、本は殆ど買わずに図書館で借りて読んでいます。思い切って買う時でもアマゾンで古書扱いになってから古い本を買います。何年か前に五木寛之の「親鸞(上・下)」を買って読み、一部不快な表現もありましたが好感が持てました。
その小説を基に少し調べてみたところ、鎌倉時代にいろいろな宗派ができましたが、それぞれの宗祖と言われる人も殆ど延暦寺などのお寺で、一緒に修行に励んだようですね。

個人的な話で恐縮ですが、私の家は「浄土真宗本願寺派」です。恥ずかしながら父親が亡くなってからそのことを知り、葬式の準備が大変でした。前の記事で少し書いたように、お盆にご住職がお経を上げに来てくれる度に、一段落してお茶を飲んでもらう時に、私が無知から来る質問をするのですが、真面目にちゃんと答えてくださるので、有り難いと思っています。

以下、その質問の答えや自分で気付いたものなどを簡単に無茶苦茶な順番ですが書いてみます。

(1) 日本で一番信者が多いのは、浄土真宗などではなく、「創価学会」。創価学会は日蓮宗(あるいは日蓮正宗、日蓮上宗)から破門されたらしい。

(2) 浄土真宗東本願寺派と大谷派とお東さんが同一かというと、微妙でいろんな分派があるらしい。

(3) 「南無阿弥陀仏」は、東本願寺派では「なむあみだぶつ」と唱えるが、西本願寺派では「なもあみだぶつ」と唱える。

(4) 西本願寺派では、仏壇の絵像?に金色の放射状の線が描かれている。

(5) 東京で5,000人を超える参列者があるような葬式を行える場所は、青山葬儀所か築地本願寺しかなく、築地本願寺は浄土真宗だが、大抵の宗派の葬式は受け入れている。ZARDの葬儀もいずれかだったと記憶している。


実は、上記の話は途中から横道に入っており、本当は「脱線」という言葉を使おうかと思ったんですが、私の話はしょっちゅう「脱線」するので、私のブログを時々訪問してくださる恐らく2〜3名の方の中に、鉄道関係者の方がいたら不愉快だろうな、と思ってできるだけ使わないようにしました。首都圏のJRで、一時期不審な火災なども頻発したこともあります。
ただ、そんなことを気にしていたら、何も書けないということは分っているので、また復活させます。実際脱線事故は、殆ど起こっていないことも知っています。

本当は今日は『祈りの園』のHPのまた昔の曖昧な記憶の話をしたかったんです。
実話かどうかは確認できません。
概要は、次のとおりです。


ヨーロッパかその周辺の地域での戦争で、一個中隊というのかどうか分からないが、ある程度の規模の軍隊が行軍していた。途中の都市の市街地のほぼ中心部で、「休憩」となった。そこにはイエスの銅像があったが、ミロのビーナスのように、無残に両方の手が失われていた。
ある程度の時間が経過して、「よし、出発」との命令が下された。
その時、一人の兵士が銅像に走り寄って紙を貼ってから出発した。
その紙には「あなたが私の手になりなさい」と書かれてあった。

私はこの話にかなり痺れました。
しかし、以前の「今の日本人とキリスト教」の話のときと異なり、普通の日本人は無関心かもしれないと思っています。

日本の仏教・神道でも様々な奉仕活動やお勤めを行ったり勧めたりしていますが、例えば、阿弥陀如来や何とかの神について、「手になりなさい」という言い方はちょっと聞いたことがありません。

仏教では、志願者の中から見込みのある者だけを出家させて修行させたが、キリスト教では、イエスの方から取税人のマタイ、漁師のシモン兄弟などに、「あなたは今日から人間を獲る人になりなさい」という意味のことを言って一緒に連れて行ったということと関係しているのでしょうか。

私的には最初の方に書いた「神の摂理」に、利他愛、奉仕の心、善・正義の実現などが入っていると思っているので、神の手足となって行動するのは当然と思っているので違和感はありません。
タグ:祈りの園
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

ブログランキング・にほんブログ村へ